2007年11月4日日曜日

11月3日(土)文化の日

名跡逍遙の記「比叡山延暦寺」

1.朝思い立って「比叡山延暦寺」を目指すことを決めた。何時もそうだ。大体朝起きて、その日の気分で行動を決定する。今日も喫茶店でモーニングを食しながら自民党と民主党の大連立騒動を報道する新聞を目で追う途中で右脳は徐々に反応し始める。勿論前から何時かは行きたいと頭の引き出しにあるもので、それが動き始めたのだ。延暦寺以外は出て来ない。ちゃんと脳の中では順番は出来ている。
2.8時35分に家を出て湖西線JR坂本延暦寺駅には9時40分頃には着いた。電車を降りてまさに坂本駅の改札口を通るところに知人からメール。バスでケーブル乗り場へと進む。坂本の町全体が延暦寺の町のようであり多くの神社仏閣を抜ければ乗り場だ。大きな神社がある。全国の日吉、日枝神社の総本宮の日吉大社が比叡山の麓である。
3.標高700メートル弱、11分で到着。琵琶湖が眼前に遠く琵琶湖大橋が見える。戦国の時代、延暦寺の学僧もこの風景を見たのであろう。「焼き討ち」で全山火に包まれた阿鼻叫喚の比叡山は遠く琵琶湖周辺の人々にどのように映ったのであろうか。恐ろしい地獄絵であったことだろう。しかし「信長はすごい。こういうことをすることが善悪を超えてすごい男と思う。」 「改革の魔王」「時代の変革者」、僕は言いようもなく「織田信長という男に惹かれる。」
4.「伝教大師最澄が開山」して1200年、不滅の法灯が悠久の時間を刻む、「天台宗の総本山」であるが、とにかく「比叡山延暦寺」という言葉とその響きから、昔からある特別な思いをこの仏教の母山に抱いていた。それは「高野山」との対極においているからであるが、信長に全山「焼き討ち」にされたお山は果たしてどのようなお山であろうか。この一点が僕を叡山に引き付ける。
5. ロープウェイから緩やかな登り道を行けば、「東塔」が見えてくる。少し肌寒いがさわやかな風が心地良い。結構人出は多い。僕は坂本から登ったのであるが、後で知ることになる「京都からのルート」もある。京都ののど仏みたいなところに叡山は位置する。
延暦寺には大きく分けて3つの塔があり、中心となるのがこの東塔だ。他に「西塔」「横川」とある。東塔は16谷三千坊の中心で国宝「根本中堂」がある。
6.根本中堂は比叡山延暦寺の総本堂で回廊を通り中堂に至る。「ご本尊秘仏薬師如来」をまつる宝前に「不滅の法灯」がある。建物の中は朝夕継ぎ足す油の臭いがかすかにする。幽玄な雰囲気が漂う中で時間をかけてお祈りをした。
焼き討ちですべて消された延暦寺であり、何ゆえ不滅の法灯かというと消えた法灯の復活は平泉の立石寺から分灯したとボランティアの人が他のグループの人たちに説明していたのを聞き、なるほどと納得した。信長亡き後秀吉、家康の保護を受け、再建に乗り出した延暦寺は徳川3代家光の時代の寛永年間にほぼ現在の形に復活したという。大きな力はあの「慈眼大師天海僧正」によるもので、徳川将軍の知恵袋といわれた天海は上野寛永寺、そして日光東照宮と徳川一筋の御坊であったが延暦寺には大恩人であることは間違いない。しかし僕はどうも映画などの影響か、この天海という僧侶を好きになれない。
7.根本中堂は平たいくぼ地にあり周辺から見渡せる位置にある。最澄の教えの根本は「個々が思いやりの心を持って一隅を照らす人になる」というもので近くには「一隅を照らす会館」とかがある。最澄が著した「山家学生式」と言われる有名な書物に「照千一隅」という言葉があり、堂で目に入る扁額もこの字が多い。是非これは「生徒には講話の機会に伝えねばならない」。一隅を照らす、良い言葉である。
比叡山延暦寺は僧が言ってみれば勉強する場であり修道場である。従って叡山には修行された高僧が多い。特に鎌倉時代には「法然、栄西、親鸞、道元、日蓮が修行」しその旧跡が保存されている。
8.「文殊楼は文殊菩薩をご本尊」とする建物でなかなか趣がある。江戸時代の建物がそのまま残っており、僕も中に入ってほぼ垂直な階段を登って安置されている所へ向かう。「学問、知恵の仏様」だ。大きな柱を巻いている鉄は大きく錆びて年月を表す。錆びてこれ以上腐食が進まないのは、もうそれで「耐候性」が出ているものである。元「鉄屋」の僕にはすぐ分かる。学生とおぼしき人が絵馬をかけて祈願をしている。神社神道の本校であるが時にこういうところにも「遠足」でくれば良い。
9.時刻は正午、バス乗り場にあるお土産店で中食。何を食するか思案に時間はかからない。何時も「ご当地もの」であり、今日も鶴喜そば店で特製「延暦寺そば」としたがお高い割には味、風情もそれほどではなかった。他に参詣記念「山菜わさび」と「赤鬼まんじゅう」を求めた。当世事情を反映して「国産原料使用」のシールが貼っている。
10.その他大講堂、阿弥陀堂、法華総持院等があり、いずれも荘厳な建物だ。大講堂の中は前述した高僧の大きな肖像画と説明書きが所狭しと飾られており、これなども少し違う感じがしてならない。法然聖人のところでは「比叡山で修行し、京都の吉水に草庵を建て・・・。」とある。僕の知人に浄土宗に極めて近い人がいるのだが、その人は「吉水の言葉」さえ知らなかったことを思い出し、「クスツ」と笑ってしまった。
11.あと一つ気付いた点は大師最澄の生い立ちなどが説明書きとして順番に立てられていたり、又多くの文人がこの地に来ており、又小説の舞台に使われていることなど詳しく説明している。夏目漱石の虞美人草にも出てくるらしい。でもこういうのも痛し痒しで、余り過ぎるのも神秘性を損なわないか。少なくとも高野山にはこのようにすぐ気付くようなものはなかったように思う。
12.「比叡山延暦寺」は「高野山」とは趣が異なる。まずその広さも大きさも比べて高野山の比ではない。小さく狭い。何か偏狭な感じがしてならなかった。それに不思議なことに気付いたが、多くある堂や坊に「焼き討ち」を歴史的に述べている案内板などない。説明書などにも記述されていない。僕など叡山と言えば「最澄」と「焼き討ち」だとすぐ反応するのであるがそれを記述している場所や説明書きなどない。あえて無視しているような感じである。完全に怨念を引きずっているように見えてならない。歴史上、有名な人物のお墓もない。間違いなく信長の焼き討ちの影を今日に引きずっている。ここは若い僧が修行する場所だっただけに琵琶湖を懐に抱き、京都に近く、全山城壁のような比叡山で修行中の僧は藤原道長をして嘆かわせたように叡山の僧兵となり、時の権力、権威に立ち向かっていき、僧を頼みにしていた一般人も巻き込んで人、建物すべてが信長に抹殺された歴史をこの比叡山延暦寺は間違いなく現代にまで引きずっている感じがする。更に言えば湖水に沈んだ坂本城を築いた明智光秀のイメージも重なる。
13.帰りは京都におり京阪出町柳から淀屋橋に出て、16時前には天王寺着。「文化の日」を有効に使った。