2008年2月27日水曜日

2月27日(水)学校文化の変質

互助会と当事者主義の崩壊と分離
1. 学校社会の互助会的機能
・ 恐らく私の造語になるかも知れないが学校社会は互助会的な雰囲気があった筈である。筈と言ったのは「昔はそれくらい互助会的な雰囲気が強かった」ということである。勿論今でもその香りは相当あるが、それでも昔に比べれば弱くなってきていると私は思う。
・ 互助会とは「先生同士がお互いに助け合って物事に当たる」という姿勢のことである。戦後新しい教育を「民主的教育」と謳い、戦前教育の反省もあり、「皆で案を出し、皆で挙手をして多数決で決めていくというスタイル」のベースが互助会的な形を醸成していった。
・ 当然互助会には「管理職という存在は不要」であるし、あっても希薄になる。「教員が教員の手で決めていく」のだからそこには「管理職を頂点とする組織」という概念はなく、巷間言われているように「学校は鍋蓋社会で教員はフラット、校長は蓋のつまみ」であると見事に表現されているくらいだ。
・ 戦後、長い間学校社会の「教職員組合の組織率」は90%以上という極めて高い組合員構成でこの互助会的組織に組合の主張は見事なまでに合致して一体化していくことになる。現在公立学校の校長先生はその大半が昔組合の闘士という話は珍しいものではない。
・ 言いたいのは今この「互助会が学校社会で崩れつつある」ということである。それは又組合の組織率の低下を裏付けている。逆に組合の加入率の低下が互助会的雰囲気を変えていったということも出来るであろう。
・ 「互助会の崩壊は新たな問題を学校に生み出す」ことになった。それを言及しなければならないので長々とこの話を書いている。
2.当事者主義の一人歩き
 ・一方学校風土には「当事者主義」という概念も強い。「今一番、学校にとって、教育にとって、生徒にとって大切なものは何か」がまず学校の教師が考えることであり、幾分私はこの点に疑問をもたない訳ではないが、一応信じるものとして、この「現状最適主義」が当事者主義を増長させてきたと考える。
 ・典型的なことは「担任至上主義的」なところなのである。あの生徒のことはあの担任しか分からないだろう、あの担任の言うことに間違いはないのだろうということを当事者主義と定義している。
・従って担任の意見は学年の意見となり、最後は学校の意見となってくる。伝統ある学校での学年主任は担任至上主義の取りまとめ役だから、存在感は大きくなって当然であり、時に学校長や教頭は「学年主任に伺いを立てる」といったようなことは見慣れた光景として学校社会にあったのである。「学年主任花形論」の所以である。
3.互助会と当事者主義の分離解体
 ・学校が最高の馬力を出して疾走するのは「互助会と当事者主義が車の両輪」あるいは「車体としての互助会がしっかりと機能して、その上に当事者主義が乗っかかる」時である。互助会機能が崩れたら逆に当事者主義は危険に陥る。
 ・学校文化の互助会機能はまず「組合の教研集会」「職場の飲み会」「職員会議」「ミーティング」「各種委員会」「研修会や宿泊研修会」「修学旅行や運動会などの後の打上げ懇親会」等々特別な連帯作業で醸成され、お互いが刺激を受け、センスを磨いていったのであるが、「昨今の教員は肝心のこれらの行事に参加しなくなった」。
 ・理由は様々であるが「自分の時間を大切にしたい」「プライベートに踏み込まれたくない」「仕事は仕事、個人は個人」と概念が強くはびこり、機能的な会議以外は誰も出席しないようになり、本校の例であるが学校で「最も重要な職員会議」にも「俺は出ない」といったことがまかり通るようになって来るのである。
 ・3年生の学年団は卒業式後、宿泊の旅行会などは大きな学校文化であったが、今や参加者が少なくなって実行されていない。永年勤続者を囲むパーティも年々参加者は少なくなり、問題は「好きか、嫌いかが大きな判断基準」となってきているのである。昔では考えられないようなことが教員社会で起きつつあるのである。
 ・更に言えば「ある教師が自分の担任以外の生徒でも厳しく指導」しようものなら「何故私のクラスの生徒にそのようにするのですか」と来ることになる。だから当事者たる担任に全てを任せて「口は出さない当事者主義」がますますはびこることになる。共同互助会の崩壊である。
 ・もう一つの理由が「生徒の質的変化」である。「生徒はすべて良い子」という前提条件が今日では崩れ始めている。教師から観れば「同じ生徒」が同じでなくなってきた。生徒も「この私、この僕」を前面に出してくるから教師の側に立つとマニュアルは一つでは済まなくなってきているのである。生徒の側の共同性が崩れてくると、いとも簡単に教員の互助会は崩れてきたのである。悪い意味で生徒も教員も「個人主義」が学校の互助会的なもの」を壊したのである。
 ・互助会が崩壊すると当事者主義はいとも簡単に馬脚を現す。全員が見守り、いざという時には助け合うといった学校の互助会が崩れると当事者の言い分がすべて通るというか、チェック機能がなくなり、「すべて当事者のお任せ」となる。ここが今日学校が抱える大きな問題となっていると私は考えているのである。
4.当事者主義は個人先生の力量がそのまま出る
 ・互助機能の崩壊はことに当たる教員の個人的力量に結果が大きく左右される。出来る人は「ああ、邪魔者がいなくなった。1人で思い通りに進められるわ」と言って喜ぶかもしれないが、問題は今まで皆の力を借りて、自分がやったように錯覚していた教員と、共同体的互助会の背に乗って「さぼってばかりいた教員」である。
 ・実は今日の学校改革の問題はこれら「教員資質論」が主体である。互助会がしっかりしていた時代は「教員の資質問題」などは話題にも上がらなかった。ところが今日では「教員免許法まで改正し更新するとか、させない」とか、「人事評価で処遇に差をつける考課制度」が登場したり、「要は駄目教師は教壇に立たせない」と過激なばかりの論調が目立つようになったのは、この「共同互助会の崩壊と当事者主義の増長が背景」にあると私は考えるのである。(今後この論考は続く)