2008年7月16日水曜日

7月16日(水)ひげ考

ひげでマイナス人事評価
・ 面白い記事があった。各紙に掲載されている。「ひげを理由に人事評価をマイナス」にしたのは「人権侵害」と例によって大阪弁護士会に申し立てをした人間がいる。この人は郵便事業会社の55歳の男性社員で90年から口ひげを蓄えているという。
・ 面白いのは朝日の記事は顔全体を出さず、「口ひげだけの写真」だ。読売は顔全体を出していた。朝日のように口ひげだけ出ていたら、最初「これは何か?」とギョッとした。気持ちが悪いものだ。しばらくして吹き出してしまった。朝日の意図はナンだろう。
・ 日本郵便の前身、郵政公社の時代の2005年から「接客マナー」を三ツ星で3段階評価する制度を導入したが、「ひげを生やすことは評価の対象外」だったらしい。これに対して文句を言った人は荷物の引き取りなどの担当だったが星はひとつもなく、人事評価でも制度と連動する顧客対応の項目だけが低く、「身だしなみの改善」を要求されたことが気に障ったらしい。
・ 何でもかんでも弁護士会に「救済申し立て」をする風潮はまあ「弱者と言われる人」には便利な方法かもしれないが、言ってみれば「たかが口ひげ」一つで大騒ぎとなるものだ。
・ 弁護士会は口ひげが低い人事評価の理由と認定し、「ひげは個人の自由で人格権として保護に値する」とし、無精ひげではなく手入れしている、顧客の苦情もないとのことから「評価が低いと昇給などで不利益を受ける」として是正を求めてきたものと記事にはある。
・ 訴えた本人は「一方的な価値感を押し付ける風潮を変えることが出来れば」「泣く泣くひげを剃った同僚もいる。納得できない」と言っているらしいが、人のことはどうでも良い。自分のことだけを考えなさいと言いたいところだ。日本郵便は「ひげを生やしていることで人事評価への影響はない」と言い切っている。当たり前だ。
・ 天下の日本郵便だ。優秀な人事労政の専門家を有している大組織が「ひげだけで労務管理に影響を与えるようなアホな制度設計」をするわけがないではないか。もし評価が低いというなら、ひげと人事評価とは関係ないところでこの人の評価に関わる部分で問題があったと考えることもできる。
・ 本校にも「ひげ教員」が思い出すだけでも3人はいる。二人は「口ひげ」、一人は「あごひげ」だ。3人とも「男前」で別にひげなど生やさないほうがより「イケメン」に見えそうだが、ひげを付けている。私から「剃れ」と言ったことはないし、今後始まる人事評価でもひげで評価が低くなるようなことは全くない。この3人の先生はどちらかと言うと教師としては優秀な先生ばかりである。
・ しかし「私はひげは嫌いだ。」好き嫌いは個人の感情の問題でどうにもならないが「嫌いなものは嫌い」である。その根本にあるものは「何故ひげなの?」という命題の答えが見つかっていないからだと思う。
・ アラブのように「男のひげは普通、ないのは異常」の文化の国ならいざ知らず、高温多湿の日本で、そうでなくとも暑苦しいのにひげの顔を見たら余計に熱く感じるのだ。「ひげを生やす目的は何なんだろう」?まず「男の権威」というのが一般的な答えか。しかし100人いる男の先生の中でわずか3%、3人だけだ。他の男はひげなしで「男の権威」を示しているのかな。
・ しかし一体全体男の権威とは何事か?「男女共生」の世の中にあって今頃男の権威などと言うこと自体「ジェンダーフリーの思想」を勉強しなさいと言われそうだ。女の権威のためにと言って女はひげを生やしてはいない。権威など関係ないのではないか。
自己顕示」しか考えられない。「存在感の確認」かも知れない。「強く賢く見せたい」と言う事かもしれない。精一杯の自分の「概観の創造」かもしれない。
・ ひげの歴史にも栄枯盛衰があるらしい。仏教伝来以降僧や一般人もひげを蓄える風習が出てきて「ひげを整える」のは毛抜きで行っていたらしい。その後「武家に対抗」して「偉ぶる」ためかどうか知らないが「公家」がひげを生やし始め、「徳川幕府はひげを禁止」した。
・ 明治政府になってから欧米の風習を真似、まず「官吏、政治家、学者」がひげを流行させたらしい。明治の元勲は皆ひげを生やしている。漱石も、鴎外もそうだ。この三つの職業はまさしく「偉ぶる職業」と言っても過言ではない。そのうち、政治家は「選挙民の目」を意識してひげを生やさなくなった、
・ 覚えていますか。大阪府の知事選で橋下知事に対抗した民主党の候補は大阪大学の教授で立派なひげを蓄えていたが「それでは選挙民の反感を買う」と言ってひげをそり落としたが、結局大差を付けられて敗れて終った。
・ 大手企業ではまず「ひげ社員」はいない。先ほどの日本郵便は大きな組織で民営化されたから企業であり、ましてや「「客商売」だから「ひげ禁止」があるのは当然だ。訴えた人がいうような一方的な価値感の押し付けではあるまい。
・ 役人も官高民低「偉そうにするな、公僕だろう」との批判からひげを剃った。例外は田中真紀子元外務大臣と喧嘩して飛ばされたあの野上という外務次官がいたな。結局残っているのは学者だと思う。「大学教授、学校の先生がいまやひげの主流派」となってしまったと私は論考している。
・ これは「社会学の分野」である。尊敬する教育社会学者の竹内洋先生の書物において「日本のひげの社会的分析」を調べようとしたら、なんと「竹内先生までが立派な口ひげ」を蓄えておられた。むべなるかなである。
・ 本校の3人のひげ先生も「どうか手入れだけは怠りなく」お願いします。私は「立派なひげを生やしているからと言って人事評価でプラスにはしません。」考え方としては「ひげを生やして偉そうにしても決して高い得点にはなりません」というべきだろう。
・ 結局「ひげを生やして何を訴えようとするのか」「ひげを生やして他人と差別化をして何を得ようとしているのか」というのが明確に分からないところへ持ってきて、「かたくなに自己主張するものが組織にとって必ずしも歓迎せざること」ではないか。
・ ひげを生やす、生やさないことが「個人の価値感」ではないと私は思っている。日本には欧米と違ってひげを生やすことが「マジョリティ」として広く認められて来てはいない。現実がそうである。「例外」なのである。「平均値を考える場合に母集団に入らない」と私は論じる。価値観という考え方は同じ母集団の範囲内にある。
・ 「喫煙」と同じ運命である。「嗜好品」として許されてたものがいまや「バッシングに近い」感じで社会は喫煙者を攻め立てている。同じような運命にあるのではないか。未だにひげ先生と話をするときは話していることは半分くらいしか頭には入らず、立派なひげを私はただ眺めているだけなのである。このひげが無かったら「どんなお顔だろうか」ってね。