2008年7月25日金曜日

7月25日(金)今日的高校生の側面・・・私語

私語とうつ伏せ
・ 社会教育学者の竹内洋先生はある書物に「大学生の私語」について論考されている。学生の私語が問題となったのは「大学の大衆化と消費社会の始まりの時代」だったといわれる。更に先生は「大学の休講が多い」ことが社会問題化され、大学は「休講を減らし、休講した場合は補講」しなければならなくなった時期と符節すると言われる。
・ 要は休講が多いと「今日はノートにとっておこう」と学生は考えるらしい。当然私語は少なくなる。新学期の最初は休講、酷いのになると5月の連休明けから講義というのもあったらしい。昔は「開講日」として掲示板に載せるくらいだから、「たまの授業には静かに聞こう」となるらしい。先生らしい論考だが、最近の「高校生の私語」はどう考えたらよいのだろうか。
・ 「伊勢修養学舎」でもそうだが、担当の教諭は叫びまくる。「静かにしなさい」「口を閉じなさい」「なんで喋るんですか、喋ることは何も無いでしょう」「そこ、静かにしなさい!」「どうして皆さんは全員で集まった時にそのように喋るんですか」「みんなに迷惑をかけていますよ」「静かになるまでは始まりません」「後にずれていきます」「早く終わりたいでしょう」「そこ、静かにしろ!」くらいでようやく静かになる。
・ 指導する教員の声は段々と大きくなってくる。そして「一旦静かになった」と思ってもまた直ぐ何かのタイミングで「私語が始まる」のだ。今度は幾分規模は小さくなる。50分の授業の間のことは問題とはしていない。本校は授業が崩壊している学校ではないし、授業妨害は厳しい処分としているので、その事自体は問題ないのだが、とにかく「ドリフターズの全員集合」みたいに全員集合時に私語が飛ぶ。「がやがや、どやどや、ざわざわ」静かになるまで一定の時間がかかるのだ。
・ 中庭で行う一斉参拝とか始終業式など立ったままのときは私語や笑い声だけだが、椅子がある講堂等の場合も基本的に同じである。加えて机がある場合、休憩タイムなどのときは文字通り「グターッ」と机に両腕を投げ出してうつぶせになる。あれは「一体全体なんだ?」と思ってしまう。
・ とにかく今日的生徒の2大特徴は全体集合時の「ペチャクチャ」と「グターッ」だ。どうしてあのようになるのであろうか。前述の竹内先生は私語をする大学生を「透明な存在」と表現され、「今の大学生には世間とか社会とかの感覚などは無い存在」と論破されています。
・ 私は「「ペチャクチャ、グターッ」の高校生と「私語」の大学生は関係があると思っています。だって高校を済んでから大学に行くわけで連続しているわけですよ。「透明人間」とは上手く表現していますが、確かに今日的高校生にとって「自分の世界」が全てなのですね。
・ 「ジコチュウ」と言って「自己中心人間」は高校生仲間では代表的嫌われ者ですが、全体が実は「ジコチューの世界」なのですね。あくまで自分中心。自己と周辺、社会の中の自分と言う「相対的な見方がどうも苦手」なようです。その中で際立った自己中心に刃を向けて自分の自己中心には意を介さない。まさしく自己中心なのですね。私はこのように観ています。
・ 「公共心、公共用事とか公共の場所」と「自己の私的な感情と私物、あるいは自分の居場所」などの概念が対峙して存在するという概念が希薄になってきています。電車内での飲み食い、ポイ捨て、駅や、最近では学校の教室までが「自己の所有物」というか「一線引かれた場所」という概念が無くなってきています。
・ 大人でも電車内ではまず100%携帯を取り出しますし、化粧をする女性は今や普通の光景になってきました。最近少し減りましたがべた座りもまだあります。髪染め、化粧なども「人の迷惑になっていないのだから良いではないか」という屁理屈です。
・ 「厳しく叱る」と「ようやく考え始め」、直ぐに「ああ、こういうことはしていけなかった」と反省はします。「反省の天才」ですね。これは重要なポイントで反省せずに「食ってかかる」生徒が多い学校の教員は大変ですよ。まず反省から学習していくようになってきたと思います。反省する前に「これはしてはいけないことだ」と深く考えないようになってきています。
・ 「静かにしなさい」と大声で言われて「あれ、自分のことか」と気づけばそこで静かになります。最初からは静かには出来ないのです。そして「ここは静かにする場所」だと分かっているところでは「待ちの間」、先ほどのように「グタ-ッ」としてうつ伏せになって時を待ちます。こういう光景も昔はそう多くはなかったと思いますよ。
・ 彼らは「納得させることが重要」です。特に成長するにつれてこの「納得性」が大きな比重を占めます。納得しないと繰り返しになります。ところが一度の経験で他に応用するということが又不得手ですね。同じことは繰り返しませんが近いことは又やる。そして指導を受けます。
・ 教室単位、即ちホームルーム単位が学校の重要な単位ですが、ここも秩序が全く変質してきています。成績一番で皆の尊敬を受けている生徒、喧嘩にめっぽう強くて番長みたいな生徒、芝居じみたおどけ者、暗らーいネクラなど様々なタイプで教室の秩序は保たれていましたが、携帯電話社会では同じクラスが友達とはなりません。他のクラス、他校の顔を見たことにないメル友、ますます教室と言う共同体が崩壊しつつあるのです。
・ 携帯電話さえあれば自分は孤独ではない」「熱い人間関係は余計に暑苦しい」と思ってしまうのです。完全に「自己中心社会」に浸っているところに「人間関係から学ぶ」側面は薄れてきています。だから全員が揃った時には「大きな社会の突然の出現」に最初のうちはなじめず、「デジタル」から「アナログ」の世界に慣れるまで落ち着かないのだろうと思っています。「学校は完全なアナログ社会」です。「教育はアナログである」は私の造語ですが肝心の生徒はもはやデジタル社会の申し子になっているのです。
・ 彼彼女たちは自ら発信することが好きで「国語の作文は苦手」だが「メールは極めて早く上手く書きます」。ところが「受信はどうも苦手」で「発信」には強い。教師からの発信を上手く受け止められません。難しい世の中になってきました。
・ 今日で「伊勢神宮」での私の出番は終わりです。来年に向けて又作戦を練りましょう。名誉理事長が宮司の「大阪天満宮での天神祭」の日です。本校の生徒が100名以上参加して陸渡御、船渡御に応援参加しています。無事な帰還を祈っています。今日も暑い日でした。