2008年8月3日日曜日

8月3日(日)その1:琵琶湖哀歌

・ 「琵琶湖周航の歌と琵琶湖哀歌」のことが頭から離れない。年を取るとこのような哀切迫る歌曲に弱い。琵琶湖周航の歌は従来から知っていたが琵琶湖哀歌は知らなかった。それで今日ネットで調べたのである。昨日買ったCDはフルート演奏で歌詞は入っていなかったからである。
・ 昭和16年4月旧制第四高等学校のボート部が練習中に比良の山おろしの突風にあおられ11名が亡くなるという大きな事故が発生し、「鎮魂の歌」として作詞作曲されたものだという。遭難地にはソメイヨシノが植えられているという。
・ ネット上の再生回数は「東海林太郎と小笠原美都子のデュエット」が最もアクセス数が多く、ヤフーで「琵琶湖哀歌」を検索すると直ぐ出てくる。大正時代の曲だが素晴らしい曲だ。当時も大ヒットしたらしい。校長日記を読んで下さっているお方は是非ヤフーで「琵琶湖哀歌」で検索し「東海林太郎・小笠原美都子のサウンド版」を聴いてください。無料で3番までフルコーラスが聴けます。
・ 滋賀県の美しい風景が情感豊かに歌いこまれている。ところが不思議なことによくよく調べてみるとメロディーも歌詞も大変似通っているのだ。自分で口ずさんでいても「同じようになる」。基本的には同じ歌なのだろう。
・ 琵琶湖周航の歌は6番まであるが琵琶湖哀歌は4番までである。ところが竹生島、比良、志賀、湖の子、紅椿、雄松(地名)浪枕、などは双方の歌詞に使われているのだ。どうしても両方の歌曲のCDを入手したくなった。
・ 心斎橋のレコード店まで脚を伸ばすも「東海林太郎」のCDは見つけることは出来なかった。若い人は知らないだろうが正統派の流行歌手で大正から昭和の初期にかけての第一人者で「名月赤城山」など国民的歌手だった人だ。歌い方に技巧がなく、姿勢正しく声を出す歌手で懐メロファンの私は大好きだ。結局見つけ出すことはできなかった。
・ 琵琶湖周航の歌はこれはいくらでもある。まずネットでは「賠償千恵子」がもっとアクセスが大きそうだったが、これは無料だからだと思う。フランキー堺とか渡哲也とかあるがはやり「加藤登紀子」だ。
・ 今津の記念館でも流しているのは加藤登紀子のものだった。それを探すのだがこれもないのだ。しかし諦めずに「中古店」で遂に見つけた。「日本哀歌集 加藤登紀子」で第1版は1986年だから32年も前だ。あの有名な「知床旅情」をメインにしたアルバムの中にあった。
・ 彼女の歌い方は何か「反体制的」な趣がして声が太く、それが情感を盛り上げ「加藤登紀子の世界」を作り上げている。今これを聞きながら日記を書いているのだ。「カチューシャの歌」「ゴンドラの唄」「北帰行」や「さすらい」なども入っているのだが中々良いものを手に入れた。1500円だった。
・ 彼女の「琵琶湖周航の歌」は圧巻である。彼女の唄になっている。京都大学ボート部100周年記念斉唱などもあるのだがはやりプロの歌が良い。昨日も書いたがやはり歌詞は3番だ。「波のまにまに 漂えば 赤い泊火 懐かしみ」「行方定めぬ 浪枕 今日は今津か長浜か」だ。
・ 実は加藤登紀子さんは私が勤めていた会社の上司の妹さんにあたる。鹿島製鉄所の20周年事業にお祝いとして地元貢献で小さな町に「お呼びした」のである。当時私は現場の部長だったと思う。
・ 「100万本のバラ」が大ヒットしていた時代で田舎の町に大物歌手をお呼びするなど土台無理な話であったが「兄を通じて」手を回し来て頂いたものだ。会場は超満員で大変地元の人々にも喜んでいただいた記憶がある。それに高かった。凄かった。
・ それに驚いたのは彼女くらいの歌手になると音響設備や照明など一切合財車に積んで来る事だった。余計なことをしてはいけないのである。裸の会場で良いのだった。プロが来て準備を進めていく。それを眺めながら私は驚いていた。
・ その後私は東京本社の部長に転勤となり登紀子さんの実の兄、加藤副社長は直接の上司になった。仕事の関係から渋谷文化村などでの「加藤登紀子リサイタル」などは副社長から「券を頂いて」良く「お客さんをお連れして行く機会」があった。加藤登紀子の兄が住金にいるのは誰でも知っていたのである。「券は入らない?」などと良く頼まれたものだった。そういう時は副社長に頼めば直ぐだった。
・ そしてあれから10年になる。今私立学校の理事長として加藤登紀子の「琵琶湖周航の歌」のCDを聞いている。「流転変転の人生」だ。加藤副社長は会社をリタイアされて今京都におられると聞いている。この人は私のことを「木村は住金の小沢一郎」と言った上司である。あんまり嬉しくはなかったなー。