2008年8月26日火曜日

8月26日(火)モンスターペアレントその1

・ 訳の分からない英語「モンスターペアレント」なる言葉を聞いて「面白い、上手く言っている」と感じるか「少しおかしい、モンスターはないだろう」と感じるか、ブログ読者の方は確認して欲しい。誰が最初言ったか知らないが私は後者だ。
・ 阪大の小野田教授は「モンスター(怪獣)は人格否定に繋がり物事の本質を見えなくする」と言って警鐘を鳴らしている。ところが今や「テレビドラマ化」されるくらいに「社会問題化」し、実は今晩あるが夜10時からだしとても視る気にはなれない。
・ 学校に「理不尽な要求を突き付けたり、無理難題を言う保護者」のことであるが、公立と私学では捉え方が少し違うし、高校と小学校・中学校とではかなり様相が異なる。圧倒的に義務教育と公立に多い現象ではないか。
・ モンスターペアレンツは「堂々と名乗って」来られる保護者で匿名の電話や手紙であれこれ文句を言われるのよりは大分益しと私は思う。先方の言いたい点が極めて具体的で良く分かるからだ。「言い分がはっきりしていて良い」というのが私の受け止め方である。
・ 例えば「担任を変えて欲しい」「ああいう言い方はないでしょう」などと保護者は往々にして言って来るものだと考えておけば学校はそれほど驚くことではない。必ずそこには「そうなった要因や原因」などがあるのだ。
・ まず保護者は「総論賛成・各論反対」だと考えておけば、注意すべきポイントが分かる。「不特定の問題であれば一緒になって教育議論を戦わす」が一転「わが子のことになると眉がつり上がって」来るものだ。
・ 理不尽な要求、無理難題というが「お金を払って可愛いわが子を預けていると言う感覚」は今日的に分からないではない。「預けているという感覚で、教育をして貰っていると言う感覚はないというか少ない」という見方も出来るだろう。
・ 仕事をもっている家庭婦人が幼子を駅前の「ベビーシッター」に預けている感覚に近いというといささか言い過ぎだと思うが、今や「一般的にスーパーマーケットやクリーニング屋、市役所の窓口で文句をいうのと同じような感覚」になっている。良い悪いではなくてこのように考えれば対応の仕方も見えてくる。
・ まず「タックスペイヤー(納税者)」としての自意識の高まりがある。昔は府や市の役人や警察官などに「税金で食っているくせに」と揉めたら必ず捨てせりふとして言うのが通り相場であったが、今やそのレベルが教員にまで降りてきたということだ。
・ その理由として私は次のように考えている。まず「保護者の教育レベルが上がっていきている」ことがある。昔の親は文句なしに「学校の先生というものへの尊敬の念」は極めて高かった。しかし今や保護者の学歴が教師の学歴とまったく変わらないようになり、「大学卒の先生」などはまったく社会的な優越条件にはならなくなった。
・ そしてここ10年の「教員の不祥事の多発」と「容赦のないマスコミの教員バッシング」がある。確かに戦後60年日本の教育制度は輝くような昭和40年代50年代を境に「疲労現象」を起こしながらも過去の栄光に引きずられ「具体的な教育改革、学校改革」の手が欧米に比べて立ち遅れたことは事実であろう。
・ 教職員組合と当局の馴れ合いが改革の手を緩め、「指導力不足の教員、ダメ教師、」など今日ほど「教員の資質」が議論されている時代は過去なかった。「学校の先生は立派な人、偉い人」というのが社会の常識であったが、今や時に「学校の先生です」というのが時にはばかられるようになったと歎く教師がいる。
・ 「教師はプライドこそがエンジン」であり、このプライドをずたずたにされたら「元気はなくなる」のである。しかし教師側もこのような事態を「反省」として全面的に受け止めなければ成らないのではないか。昔は「指導力不足」などの言葉はなかった。それは「教師集団が集団として対応していた」からである。
・ そこには「教職員組合が良い面で作用」していたのだと私は論考する。組合組織率が90%以上と高く、組合の「教育研究会、即ち教研」などが前向きに学校現場の課題を団結で対応していた面がある。
・ ところが組合組織率が30%を切ってくると「教員間はばらばら」でお互いが助けあい、共に対応するという文化がなくなってきたのである。まさに今日は「個々の教員の有している能力・資質そのものに直接的に影響される学校現場」となってきているのである。「やり方の上手い教員は保護者とのトラブルはないし、あっても簡単に収まる」。ところが教員によっては「事態をますます悪化」させかねないようなケースもあるのである。
・ 私学は「お客様商売」と考えると腹が立たない。「仰せごもっとも、申し訳ありません」が言えるかどうかだ。「どうするかは又別の問題」でまずはお客様の「言い分をお聞きする」姿勢が重要だ。そして「すばやく対応する」、この一手だ。とにかく「スピーディに反応」するのだ。まずこれで80%は物事は解決する。
・ 私は何時も教職員に言っていることは「面倒見の良い学校」である。この面倒見の良い学校というのが「全ての切り札」であると信じて疑いない。わざわざ公立中学や高校を蹴って授業料の高い私学にきている「付加価値」はこの「面倒見の良さ」である。
・ 丁度今小学生や中学生を子に持つ保護者世代は丁度25年前の新しい教育観「個性尊重と自由主義、ゆとりの教育」という時代に学校を卒業した保護者だ。今後しばらくこの状態は続く。それを「自己中心的な保護者」と歎いても仕方がない。「いやな物はいや、嫌いなものは嫌い」とはっきり言いなさいと学校は教えて来たのだ。
・ 大体、学校給食で「偏食を治す」というのが決まりだったが今や「家の子はにんじんとピーマンが嫌いですから給食のおかずには入れないで下さい」とメモが学校に来る時代だ。「髪染めは禁止しているが家の子は地毛です」と言って頑強に子どもの側に立つのも聞いてみると「人様に迷惑をかけていないのだから良いではないか」という論理だ。
・ 本校の監事のお一人は「幼稚園を経営」されているが、先般何かの話しのときにこの園長先生は私に嘆息されていた。「運動会が雨で順延、再順延したのだが、田舎から出てきたお爺ちゃん、お祖母ちゃんの交通費を出せ」と言われ困ったらしい。これなど「要求の時代」の最たるものだろう。(その2に続く)