2008年11月4日火曜日

11月4日(火)焼き飯談義

・ 麻生総理は「庶民ではないし庶民である必要はない」。一体マスコミの言う庶民とは何だ?とにかくこの国のマスコミの記者の中には「幼稚というか」「思慮が浅いというか」分けの分らない連中がいる。総理が仕事の後ホテルで飯を食おうが葉巻を吸おうが人の勝手ではないか。
・ それを「高価なホテルで毎日会食」するのは「庶民感情を無視している」という論調だが、この記者などはホテルと言うものが分っていないのではないか。ホテルの「焼き飯が1000円」と言うと「ひゃー、高い」という芸能人コメンテーターがテレビで発言していたが、私みたいなものでも650円くらいの焼き飯は食べる。最もお金が少なくなると「王将」だ。ここは安い。それでも500円はする。
・ ホテルというのは私流に言えば「安全な空間を売る場所」だ。これに対して高級料亭は「安全な雰囲気を売る場所」である。いずれも「セキュリティは万全」で「個人情報は守られ」何しろ「独立した居場所」が買える場所である。
・ 都心の一等地にあり、シェフも一流だ。その分コストに上乗せされているから値段は当然高くなる。大阪ミナミの裏通りにある小さな中華料理店とは訳が違う。今日は午後から出張で早く終わったから自宅で「焼き飯」を作ったが当然のことながらプロの腕とは違う。どうしてあのように「ご飯がぱらぱら」にならないのだろうか。
・ 話を戻して、総理にでもなれば24時間勤務だ。一国の命運を背負っている人である。総理になった瞬間から庶民ではないし逆に庶民であってはいけない。時々刻々と「情報を仕入れ」、「120%頭を回転」させ、「人の話を聞きながら」、「最終結論」を出すことが求められるしそれが仕事だ。
・ その神経たるや余程でなければ持つまい。20年、30年前の総理の時代は現代社会とは大きく違う。夜、料亭で側近と酒を飲んでいても大きな世の中の激変に翻弄されるということは昔の政治家にはなかった。
・ ところが今は根本的に違う。瞬時に情報は世界を駆け巡り、「経済の血管」は世界の端にまで巡らされている。米国のサブプライム問題は世界を同時金融危機へと直ぐに落とし込むのである。とにかく国家としての意思決定は最後は内閣総理大臣が背負う。
・ その総理に「インスタントラーメンの値段を知ってるか」と国会で論戦を挑む議員も議員だが、このような光景を見ると「もうやってられない気がする」。この国は市場主義的資本主義社会と信じているが、何か「共産国家」的に感じてしまうのだ。
・ とにかくトップが庶民のすべてを知らないと政治家ではないという論調である。そしてすべての人間が同じでなければならないという思い入れを有している人間が目に付くようになった。
「格差、格差」と騒ぐが、強調して言えば人間は生まれながらに格差が付いている。その格差を縮めるために大きなツールとして「教育」がある。つまり教育を受け、努力と運によって格差が縮まるという考え方である。
・ すべての人が500円の焼き飯というわけにはいなかい。日産自動車のカルロスゴーン会長は年収数億円の高給取りであるから5000円くらいの焼き飯を食べて欲しい。そうすることによって「助かる人々は多い」のだ。庶民と同じ感覚を得るために1000円の焼き飯を食っていてはならないというのは何かおかしくないか。
・ こういう発想は橋下知事に対して公用車でスポーツジムに行くのはけしからんというのと同じ発想である。要はマスコミこそ庶民の味方で権力を監視するという姿勢だと「錯覚」しているのであろうがこれは間違っている。ホテルで会談をしようが「1000円の焼き飯」を食おうが「国家を間違った方向に導かず、国民の生命と財産を守れ」とこの「一点で政府を追及」すべきである。
・ こういう連中は「給料も同じ」という発想である。何処の国に総理と一般庶民と同じ給与であるべきという者があろうか。「麻生総理がいくら大金持ち」だといっても総理の給料は政治家、行政というジャンルで言えば「日本一」でなければならない。給料の高い人は高いものを口にして高い洋服を着て「消費に貢献」しなければならない。
・ 麻生総理は多分におじいさんの元吉田茂総理大臣を意識しているのがぷんぷんと匂ってくるのだがこの吉田総理は私も尊敬する政治家であり、戦後の日本の骨格を作った名宰相であったと思う。
・ この吉田茂で有名なのが「白足袋と葉巻」と「馬鹿やろう解散」であるが、万事につけて貴族趣味と言われた。この人が当時の番記者から「庶民感覚から懸け離れていると思いませんか」と詰問されたなど聞いたことなどない。
・ 政治学者の高坂正尭は「宰相 吉田茂」に以下のように書いている。「要するに国民は白足袋や葉巻や暴言などを通じて彼が強い信念を持ち変動する時代の中で筋を通してきた人物であることを感じとり、そうした人物を当時の日本が必要と判断していた」とある。この通りではないか。
・ 麻生の夜のホテル会合やホテルのバーでの一杯や葉巻などより、麻生という総理が今の日本の舵取りを任せるに足ると「民心」をつかめるかどうかであろう。解散を先延ばしにしても「民の心」を奪えなかったら「麻生総理も自民党もお終いだ。」後世政権を明け渡した総理として名が残るだけではあの世でおじいちゃんに会わせる顔もないだろう。
・ 小さな、小さな組織であるが本校の理事長校長として24時間頑張らねばならない。「学校には選挙はない」が、「理事会の期待」に応えて「結果を出さねばならない」。理屈はいらない。私が1000円の焼き飯を食べようが500円のコーヒーを飲もうが理事会は何も言わない。
・ しかしこの前、大阪帝国ホテルで進路指導部長と副部長を連れてコヒーを飲んだが一人前1250円もしたのには目の玉が飛び出た。もう2度とあそこではコーヒーなどは飲まない。
・ とにかく「私への期待」から、そのための「契約対価として本校の理事会は私に高い処遇」を与えている。要は「プロの仕事師」として迎えられているのだ。この「処遇に相応しい結果を出す」ことが求められている。それが出来なくなったときが「私の引退時期」である。
・ 私は安部総理や福田総理みたいに「放り投げる」ことはしない。星野監督みたいに結果も出さず、潔さもないということにはしたくない。王監督や岡田監督みたいなけじめのつけ方に憧れる。同時に柔道の石井みたいに金になるからといって「お世話になった世界」に簡単に「バイバイ」は言えない。
・ 私を繋ぎとめておく具体的な磁力は「目標という仕事と結果に対する処遇」」である。私は戦国大名に近い。戦場で敵を打ち倒し「兜クビ」を幾ら上げたかで「知行を増やしていく」ことが大きなエンジンとなる。私は「安働き」はしない。
・ 本校では長い間、理事長報酬が無かった時代が続いたらしいが「ただはただの結果しか生まない」のであり、そういうところに私が来るわけがない。無給は仕事をしなくても良いということである。又自分の無給を理由に教職員に給料ダウンを迫っても彼らが言うことを聞くわけがない。彼らが望んでいるのは「将来の夢」なのである。トップはその夢を具体的に策定して説明してやらねばならない。「夢を実現する対価がトップの給料」である。