2008年11月16日日曜日

11月16日(日)第二回中学校プレテストその3

・ 中学校務の意思決定は通常「中学校務会」で議論が練られ、それが全体の「職員会議」で賛否が取られ決定される。しかし大体は当事者の集まりである中学校校務会での結論が職員会議で覆ることはないらしい。
・ 風邪でふらふらであったが何とか中学校校務会を乗り切り、次は「職員会議」の場面であった。誰が基調提案をしたのか記憶にないのだが説明が終わった後の質疑で私の言う「超法規的措置」に質問が出てきた。一言で言えば「それを認めれば高校教育の根幹である評定というものが崩れる」と、このようなカッコ良い言い方ではなかったが、これに近い発言であった。
・ とにかく簡単に言えば良いものを回りくどく言い方を変えて又同じ事を言う人という印象を強く持ったが、言っていることは至極当然のことで「ああ、理屈派もいるんだ」という印象を持ったのである。発言したのはベテランの教諭であった。
・ 「この学校は議論はまだ出来る素地が残っている」と感じたものだった。逆に意見が無い方が異常であり内心ほっとした感じを持ったのを覚えている。職員会議後その教員を理事長に呼び更に僕の話を聞いてもらって理解を求めた。とにかくこのようにして中高一貫問題は解決に向かうことになった。
・ まずクラス編成は議論を経て「完全なばらばら状態にはしない」「普通と一貫をまとめた混合クラスの考え方」「中高一貫の考え方は存続」させ「成績処理は分離して行う」などの具体的な方式が教員のアイデアで次々と進められていった。僕の出す大きな方針が決まれば私は些事にはこだわらない。教員に任すのがやり方である。
・ このようにして「中学校の存続」は成し遂げられたのである。結果的にこの中高一貫の解体が経営に大きな利益をもたらしたのである。勿論当座の利益追求のためだけの判断ではなくて当時関西の有力な大学が次から次と中学校、小学校を作って「囲い込み」をする時代に「せっかくある中学を廃止」することは「正しいことか」との自問自答の毎日でもあったことも事実である。
・ そして2年が経過し、3回目のプレテストを今年迎えるたのだが、もし今と全く違う局面、即ち昔と同じような「募集に苦労」していたなら「判断を誤った」と後世悔いの残る結果になっていただろう。「止めておけば良かった」と。
・ ところがこの「人気ぶり」だ。一クラスが二クラスになり二クラスが三クラスだ。「嬉しい」限りである。同時に強調したいのは単なる中学の存続ということではなくて「教員の雇用場所を確保」したことである。
・ 現在浪速中学校は管理職が1名、教員が14名今中学に配置されているのだが、もし中学を廃止していればこの15名の先生は不要であった。加えて入試広報室のメンバーとか広報予算を考えれば相当なものになる。それが逆にまだ来年は中学の先生が4名近く増強しなくてはいけないのだから「隔世の感」がする。
・ 着任時全教職員と面談したのだが多くの教員が特に高校配置の教員に多かったのであるが「中学廃止論者」一色であったが、今その人たちは何を感じているのか聞きたいものだ。面白いのは中学校の責任者のK副校長兼教頭である。
・ この先生は「中学勤務の経験が全く無いコチコチの中学廃止論者」であったが今や中学校の顔として「走り回って」くれている。彼は朝会などで時々「隔世の感」という。恐らく「照れ臭い」のであろう。いや、それだけに愛着と責任を持って中学校の面倒をみてくれているのかも知れない。
・ 当時の中学高校間の問題は「教員交流」などがなくて中学と高校に大きな壁が出来ており、特に中学校に組合教員が多かったこともあり、神社界は「ここを何とかしたい。」と強く思っていた。
・ それで私も「中学校を廃止し、組合教員を整理解雇したい」と内心思っていたのである。法廷闘争とはなった思うが法的に十分成り立つことは調べ上げた上でのことであったのである。私学においては法廷係争中の案件が一つや二つはあるのが普通であった。
・ まず労働審判、民事裁判などあり得たが「整理解雇」とは「解雇権の濫用」とならないためには解雇止むなしの合理的な考え方と社会通念上理解が得られる状態であれば「可能」であったと私は自信があった。
・ 特に「私学助成振興財団」からの「経営診断資料」は大きな私への「援護射撃」となったのである。極めて権威ある機関からの出された「イエローカード」は絶対的決め手としてこれを導入した前理事長の特筆すべき功績である。
・ しかし結局組合は見識を持って学校改革に100%協力してくれた。逆に大きな推進力となったのである。そのあたりから「あれッ」と組合に対して抱いていたものと異なるものを感じ始めたのである。理事会から聞いていたことと異なる様相なのである。
・ その要因については別の機会に詳述しなければならないが、まず僕の説明する内容に異論がなかったこと、説明責任を果たしていると言う行為、これ以上の労使対決の無意味さ、先行きの危機感、そして有力組合員が途中で敵前逃亡に近いとみられるようなに近隣の他校に変わっていったことなどが複雑に交じり合っていたのではないだろうか。整理して議論したことがないため良く分からない。いずれ誰かが整理してくれるだろう。
・ 私は「高校から中学に教員を入れ、交流」を図った。又中学校が一時期仲良しグループの朝のモーニング喫茶店と化している状況を目にして解体しなければならないと強く思った。「学校内にセクトや派閥や仲良しグループが出来ることは必ずしも良いことではない」。あくまでそれは「生徒の為に」なっていないことが多い。処遇などの不満分子が集う形は校内では良くない。
・ とにかく「楔を合法的に打ち込む」ことが肝要で「自然体」というのは経営者の「逃げ口上」である。中学と高校の教員を入れ替え、中学出身者で担任や分掌などの仕事をしない人間を、普通に分掌の仕事をしてもらうようにした。特に専任教員は担任に当て嵌めた。
・ あと2ヶ月で満2年がくるが実は「浪速改革」は「中学校改革」であったのである。これで初動の改革は成功した。しかしだからと言って今後とも上手く行くかといえばそうではない。
・ 僕の考えでは「3本くらいの太い背骨が必要」だと考えている。一本は「関西大学との連携」である。これで相当持ち上げられる。しかし一抹の不安感は消えない。関大にとっても「大学だけを頼りにされても困る」と成るだろう。後二本くらい核となる背骨を考えねばならない。「案はすでにある」。
・ 僕が何ゆえ浪速中学校に特別な思い入れを有しているか、僕のブログの読者には以上でお分かり頂けたと思う。「V字回復で浪速中学校はすばらしい中学校に育ちつつある」。さらにさらに誇れる中学校にするべく教職員一同で頑張って参りたい。