2009年1月15日木曜日

1月15日(木)その2:価格交渉決着

・ 昨年10月から始まった私のプロジェクト「多聞小学校の買収」は今日「大きな山場」を越えた。本日千早赤阪村と学校法人大阪国学院は「買収価格で決着」が付き「正式に売買契約が内定」した。記念すべき日となった。
・ 13時30分が約束の時間であり少し遅れて「村長室」に入る。副村長と総務部長が同席だ。当方は私と事務長補佐、それに理事長職務代理は藤井寺から直接来て頂いた。学外理事者を代表してこの重要な交渉に同席して頂いたのである。
・ 価格交渉であったが雰囲気は極めて柔和で厳しさなど全く無いものである。「行政の公的財産」であり、こちらも「一条校という公的教育機関」だから「裏も表もまったくいない」。総務部長が「かくかくしかじかと考えています」から会談は始まった。
・ 「交渉の経過は書くまい」。書くものではない。会談は1時間弱で終わり、今日のブログその1に書いたように地元の有力者のところに出掛けたのである。そして私が学校に帰ってしばらくすると「村長から直接電話」があった。
・ その電話で「最終決着」したのである。村長も私も声は明るく、「お互い良い声」であったと言える。その間3分くらいか。これで終わったのである。勿論村議会で最終承認の手続きはある。アメリカではこういうときに「シェイクハンズ」という。そう、「代表者の松本村長と理事長木村が手を握ったのだ」。
・ 今このブログを書きながら徐々にこみ上げてくる「充実」というか「達成感」というか「幸せ」を感じるのだ。私は「良い仕事をした」と思っている。「高揚感」も些か感じる。
・ 教職員の力でこの多聞尚学館を「未来永劫、浪速の生徒のために活用」して欲しい。それ以外に思うことはない。学校以外に学ぶ場所施設があるという「幸せを大切に」すべきである。「生徒を中心に多聞を大切にして活用して欲しい」。
・ この設備を見つけ出し、交渉し、今日の決着まで私一人で当初は極秘に進めてきた。この日を迎えることが出来たのは勿論多くの人々のお力も大きい。まず南坊城理事長職務代理だ。そして本校の教職員だ。彼らが頑張ってくれたから「買うことが出来る」のである。
・ 私の痕跡は正門の表札を揮毫することで十分だ。「学校法人浪速中学校高等学校 多聞尚学館」と「魂を込めて書く積り」である。「校章のレリーフ」も発注した。これを玄関入り口の上壁に掲げる。最も高い建物にある旗ポールには大きな本校の旗がたなびくことになろう。これもすでに発注している。
・ 「3月27日に理事会・評議員会をここ多聞で内覧会をかねて実施する」ことで案内をした。着々と準備を進めている。この多聞の支払が始まることになるが、今の本校の勢いからすれば全く問題ない。
・ 本校の現在の借入は「北館大改修手当て」「早期退職割増金手当て」これに今回の「多聞尚学館」が加わる。銀行ローンを組むか現金支払をするか、もう少し考えてみる。これで「今後は一切借入はしない」。ただひたすら「新校舎のために溜め込む」だけだ。
・ ただ昨年の10月に極秘裏にこの下調べに選んで連れて行った教員が「朝読の持ち時間減を要求」した事が今更ながら残念でならない。理事長職務代理も大層落胆しておられた。このように頭が相関して働かないようでは駄目だ。すべてが今や「リンク」しているのである。これはこれ、あれはあれと単純なものではない。
・ 公式な答申メンバーではなかったがこの教員が「時間減」を言い出したとのことであるが、この教員などこの2年間、「科コースの集約に先頭切って努力し誰もが認める一大功績を挙げた男」だ。この男をして10分の朝読書を時間減に結びつける発想なのだから本当に人間とは分からない。
・ もう一人の教員に私は聞いたのだ。「昔君が勤務していたS学園では朝読で時間減していたのか」。答えは「していません」というから、「何をかいわんや」である。最後の一人については私はもう「何も言わない」。
・ 来週今年度の生徒募集状況が明らかになってくると思うがとにかく厳しい状況が続く。今丁度私の横で放映しているテレビでは橋下教育改革で「すさまじいばかりの公立教育の反転攻勢」を流している。完全に私学流である。
・ そういう「状況をかちっと抑えて」おれば脳天気なことは口から出てこないと私は思うのだ。今でも4人のうち3人の教員がなぜあのような答申をしてきたのか理解できないのだ。期待が大きかっただけに私が受けた衝撃は大きいのである。
・ 「いい加減しつこい」と思っているだろうが私はしつこいのである。組織のトップが笑って「良いよ、良いよ」などと言っていたら「お仕舞い」だ。どの会社でもトップは「極めてしつこい」それが「物事を為すエネルギー」なのだ。「あっさり」というのは嘘である。それは「大物ぶって」いるだけである。そのように振舞っているだけで実際の心の中は煮えくり返っているのである。