2009年2月3日火曜日

2月3日(火)オンリーワンよりナンバーワンへ

・ スマップの歌に影響されたわけでもあるまいが、一時期「オンリーワン」という言葉が流行り、今でも相当な力を有している。即ち「ナンバーワンよりオンリーワン」というのだが僕はこの考えに対して「大いなる疑問」を有している。
・ 卒業式などの校長式辞にもこの言葉は「贈る言葉」として流行し、今でも存在感は相当高い。しかしだ。ナンバーワンにならなくともオンリーワンで良いと言うのは「間違ったメッセージ」を子どもたちに伝えていないか。僕はそのように前から思っている。僕が企業出身だから言うのではない。「人間社会の根本的な考え」としてである。
・ オンリーワンというのは「個性尊重」という美名に隠されたレトリックみたいなものであり、社会や組織に所属して「私はオンリーワンです。好きなようにします。今までもそのようにして来ましたし・・・」などと言ったら大変である。もっともこういう人は入社できないだろうが。しかしここ20年の日本社会はそのようになってきていないか。僕はこのような社会の雰囲気を大変心配している。
・ 会社もサラリーマンも学校も生徒もその保護者も「私は私、君は君」と言って「相対的な位置関係を無視」して「あくまで絶対的な位置」を座標軸におき、「自分さえ満足すればそれで事足れり」というのだ。
・ やはり「ナンバーワンを目指せ」ということが僕には「教育の哲理」に近いと考えている。大体、「個性尊重」なる言葉さえ、子どもの時分の話で高校生以上になったら余り使わない言葉である。社会に出て「個性尊重」などとノタマウ人を時々目にするが「違うでしょ」と言いたい気分だ。
・ あの子はどうだ、この子はああだというのは「特徴」であって個性ではあるまい。個性というのは研ぎ澄まされた特別な資質とか技量、あるいは学習に裏付けられた見識というか「物事の見方、感じ方、考え方」を言うのではないだろうか。
・ ろくに勉強もせず、知識もなく思いつくがままに言いたい放題を言うことが個性ある意見とはならない。それは「知識の浅い独断と偏見」という。お馬鹿キャラで売っているタレントを個性があるとは言わないだろう。「個性とは年月を積み重ねたものに現れる特殊な輝き」であると私は定義したい。
・ オンリーワンは「厳しい競争を避けるためのいい訳」か「負けた場合の逃げ道」に使われているのではないか。大体「競争は人間社会が持つ宿命的」なものだ。国家同士、企業同士、学校同士、一個人同士、見た目は穏やかで優しいがすべて「世の中は競争状態」にある。
・ この競争を避けて「貴方はオンリーワンだから負けても良いのよ」などというのは「教育の放棄」だと最近考えるようになってきた。競争とは競いあうものでそこには「努力」がある。この「目標、希望、志望に対する本人の我慢と努力が大切」なのだ。そこが「教育の根本」ではないのか。
・ 勿論「生まれの違い」はあるのだから生まれながらにして平等の勝負ではない。頭脳明晰な者、普通の者、いささかそうでない者など、人間は三つのパターンに分かれている。生まれながらに裕福な家庭の子と苦しい家計の中で育つ子に別れているのだ。
・ しかしそれは世界共通であって日本だけの話ではない。格差、格差と言われているがアメリカの格差の実態は日本の比ではない。「格差を縮めるための努力こそ重要」である。この努力を教えるのが教育だ。昔は「立身出世」とか「末は博士か大臣か」「お金持ちになってお母さんに家を買ってあげる」などが普通に語られた。
・ その過程で「比べると言う相対的評価」の中で「自分だけの絶対的価値・・これだけは誰にも負けないぞ・・」というものを見つけ出すのだ。これが「個性であり強み」となる。
・ 競争するということは社会の中で「自分の立ち位置を見つけ出す」ということである。座標軸の中で自分のポジションを明らかにすることは僕にとっては時に「快感」となる。「勝ってる」「「うーん、負けてる」「凄い奴が世の中にはいるものだ」「あいつには絶対負けたくない」「あいつには負ける」「やっとここまできた」などが「努力のエネルギー」となるのだ。
・「 自由だ、個性だ、権利だと叫んで育った人間にある種の危険性を僕が感じる」のはその裏にある血の出るような努力の後が感じられないからである。企業人でも公務員でも学校の教員でも「人間として薫り高い尊敬に値する人間」は「七転び八起きで涙ぐましい努力で自分の人生を切り開いた」であると思う。
・ 自由を標榜する代わりに他人の自由をも侵さない、人を負かしてまでもと周囲に気を使い過ぎる現代人は自ずと社会や他人とのかかわりに臆病となり、漠然として成り行きに身を任す傾向がある。これは「生き抜いていくパワーを失う」ことだ。
・ 今の学校の生徒や大学の学生に僕が感じるひ弱さは「夢と志」に向かってその実現のために行動力を発揮するパワーが無いからだ。それよりもパワーを表に出すことは「恥ずかしいこと」「格好悪いこと」だと思っているのではないか。
・ 汗を流さずネットの世界に耽溺すれば確かに心地は良かろうがそういう人材からこの激しい競争に勝ち残っていくという「気構え」が感じられないのがもどかしい。「どうやって飯を食っていくか家族に食わせるか方法を考え出すことが教育」と言っても良い。
・ 著名な社会学者加藤秀俊先生は「競争なくして何の教育か」と言われる。先生は1930年東京都の出身、現一橋大学を卒業しハーバードほか米国在住経験も豊富で文明論やメディア論など分かり易い文章で評論する今日の我が国の碩学のお一人である。私は尊敬している。
・ 先生曰く「もともと現代社会は競争で成り立っている。人生も又競争の連続である」。そして話は「教員論」に及ぶ。今や難関中の難関職業である教師と言う職業を手に入れた、競争に勝ち残った有能な秀才が一旦教職につくと突然豹変して「競争に反対」となるのはまことにいぶかしい。
・ 先生はおっしゃる。「子どもたちに艱難辛苦を語れ」と。「目標に向かって頑張る、その経験を語ることが教育」であると論考されている。「我が意を得たり」である。「競争を煽るものではないが競争から逃げては解決策さえ見えなくなる」と僕は思うのだ。
・ 今まさしく本校の高校3年生は「大学受験という競争の中」に身を置いて頑張っている。浪速中学の生徒は受験競争に打ち勝って「入学が決定した」。その数は120名である。しかしその影には数十名の小学校6年生が本校を不合格となり他の選択をすることになった。
・ 来週は2500名近い中学3年生が浪速高校を目指して受験に来校する。これも大きな競争である。結果は「時の運」、例え結果はどうなろうとも「努力の汗は必ず子どもたちの血肉となっている」だろう。