2009年2月22日日曜日

2月22日(日)浪速中学教諭からのレポート

・ 2月9日のブログに私は「ゼロ・トレランス教育理論」をテーマに相当力を入れて書いた。この「ブログの向け先」は主として浪速中学校の教員に対してであった。その少し前に中学校で「生徒生活指導」に関して私の「些かの特別な思い」があったからである。
・ 私のブログは分かっている人には分かっていることであるが、常に「タイミング」を重要視している。関係ないときに関係ない日記内容では不自然だし、何より私の読者は教職員と保護者を主として念頭においている。芸能人ではないから「ファン」など居ないし、「意味のないブログ」など書いてもそれは「時間の無駄」だし「私の趣味の世界」に留まってしまう。そのような「不合理」なことはしない。
・ 翌10日に担当の教諭を呼び「ゼロ・トレランスに関する教育論文」を手渡し、これと昨日の校長日記「ゼロ・トレランス」を読んだ「レポート」を出すように「校長職務命令」を発したのである。「浪速中学校の教諭はどういう考えの基軸を持って生徒生活指導」を行っているのか、知りたかったからである。
・ 中学校の生徒生活指導は確かに高校生に比べて「難しい面」があることは事実である。一言で言えばまだ「子ども」だ。それに浪速中学校に「社会から与えられているポジション」を我々は考えなければならない。浪速中学校は私立学校といえども「義務教育」の課程である。ここは根本的に高校と異なる。
・ 社会から与えられているポジションとは読んで字のごとく「即ち保護者が浪速中学校に何を期待しているか」という原点である。全ての保護者が本校に「灘中学とか東大寺学園中学の持つ機能」を期待して「おなかを痛めた可愛い子ども」を高い授業料の本校に入学させたわけではあるまい。
・ 教員は教員で自分の理想とする「有るべき中学校のイメージ」を膨らませて日常の教育活動を行う。生徒生活指導において灘中学と浪速中学に違いがあってはならない。「駄目なものは駄目」である。
・ しかしだ。未だ「発展途上の浪速中学」は「上澄み」の均質な、言ってみれば「一番搾り」の部分を相手にしているわけでもあるまい。まずここを教員は抑えなければならない。「非常に生徒の幅が広い」ということは厳然たる事実である。だから「それだけ手をかけ」面倒を見なければ理屈は立たない。
・ 浪速中学を選択してくれた生徒はそれなりの育成環境、現在の家庭環境、保護者の教育観等から「公立を忌避」し、浪速中学を選択してくれた者だろう。勿論最初から「僕もお爺ちゃんの出た浪速に」というのもあるのだが、本校選択の理由はまだ「東大、京大を目指す」というばかりではない。
・ 以上のような原点確認をベースに浪速中学の生徒指導について「ゼロ・トレランス」のテーマを出して11名の先生に「小論文」を提出してもらったのである。それを昨日副校長から全員分まとめて頂戴した。それを日曜日の今日、午後自宅でゆっくりと読ませて頂いた。
・ 今私はこの方法は結果的に「極めて良い方法」だと感じているのである。その理由は間違いなくこれは「校長と教員のコミュニケーション」であり、一つのテーマに関わる「議論」であると認識した。「静かではあるが火花が散る議論」なのである。
・ お互いが忙しい身だから学校内部で放課後、あたふたと時間を取ってもそれは議論とはならない。それに議論とは「口から出まかせ、足任せ」ではない。一つのテーマについて情報を集め、「思索」し、それを深めながら最後は「考察」に至らなければ意味はない。
・ 私が「職員会議での議論」を余り買わないのは余りにも「準備がなさ過ぎる」からである。その場で初めて聞いて「良いか、悪いか」などと簡単に結論は出せないだろう。出せないから「新しいことに臆病」となり結局前に進まないのだ。
・ 特に教員は「プライドが高い」というか、それぞれが「教育観らしいもの」を有しており、それに些か「過剰」とも思える「自信」を持っているものだから、その場でテーマを出し、その場で意見といったら「まあ思いつき、感覚の類」しか口からは出て来ないのが普通だ。
・ それを10日間ほど「時間がありテーマを規定」すると、そこはさすが教師で「じっくり」と考えてくれる。特に自己を振り返る時間があるから「気付く」ことになる。この「気付きが極めて重要」で私は今回先生方のレポートを呼んでそこを確信し評価しているのだ。
・ 今回の11人の先生の提出された小論文を読んでみて「基本的に良い先生ばかり」というのを実感した。確かに経験不足、勉強不足の教員はいるが「教師としての魂」をしっかりと有していることは分かった。
・ それは全員が「自分の教育活動を回顧」し、「反省」を加え、ちゃんと「自分の意見」を吐露してくれているからだ。そこが良い。私はお一人お一人の先生のお顔を思い浮かべながら読み進めていったのである。
・ 生徒生活指導に関わるような「複雑でタッチな課題」に「正解はこれだ」などがありえる筈はない。読んでみて11人の先生がそれぞれ、ここにも又自分の生きてきた過去と教師としてのキャリアが色濃くレポートに影響されている。当然であるが誰一人同じようなものはない。
・ まとめて言えば結局、私が常々言っている「面倒を見る」ということへのまず「自らの教育活動への問いかけ」が出発点ではないか。今回の感想にはそういう「論旨の展開」が多かった。これは「私の求めていた方向と一致」する。そういう点で私は「ホッ」とすると同時に喜んでいるのである。
・ 読んでいて実は私にも大いに勉強になっているのに気付いたのである。まだ完全ではないが今私が到達しようとしている「論考」の答えに今回の中学校教諭のレポートは大いに参考になった。別途機会を改めてご披露申し上げたい。
・ 「基本的に求められる教師の資質」は何かが今私が抱えている大きなテーマなのである。公立校長4年間、私立高校2年間の経験で今私は「教員とは一体何者?」という巨大なテーマに取り組んでいるのである。それを理解するのは教科指導を観るだけでは答えは得られない。全ては「生徒生活指導力」というか「生徒生活指導の魂」に集約されるような気がしてならない。恐らく間違っていないだろう。そこに「教師の全人間力:魂:全てが投影」されるからだ。