2009年2月9日月曜日

2月9日(月)その2:ゼロ・トレランス教育理論

・ このブログは久し振りの力を入れた「教育論」である。書かざるを得ないほど今頭にある問題があり、先週から一向に気持ちが納まる気配がない。中学校の問題である。さて「ゼロ・トレランス」という言葉があることをご存知か。これはちゃんとした「教育用語」である。
・ 「ゼロ・トレランス」を直訳すれば「寛容、寛大さがゼロ」というもので「寛容としない教育指導」「毅然とした生徒指導」という意味である。1990年代にアメリカで始まった教育方針の一つで「割れ窓理論」に基づく。
・ 割れ窓理論とは学校の窓が破られた時に「直ぐ窓を修理」し「本人を即刻処分」しなければ次々と窓ガラスが割られていくと言うもので、その背景は1970年代からアメリカでは「学級崩壊」が深刻化したことにある。
・ 学校構内での銃の持込や発砲事件、薬物汚染、飲酒、暴力、いじめ、不純異性交友、学力低下、教師への反抗などの「惨憺たる問題」が生じた。その対策が「ゼロ・トレランス方式」と言われるものである。ここで一言、アメリカと日本は違う。
・ 具体的には生徒の「校内での行動に関する詳細な罰則」を定めておき、これに違反した場合は「速やかに例外なく罰を与える」ことで改善が認められないと教師が判断した場合は「転校や退学処分を科す」というものである。
・ しかし「この考えは浪速中学校に適している教育理論か」というのが私の命題の提供である。最も現在の浪速中学校の教師たちから、この「ゼロ・トレランス」という言葉一つ今まで聞いたことは無いから彼らがこの「教育理論」を完全に理解し、「理論武装」して実践しているのか甚だ「疑問」がある。
・ 日本での導入は今後の問題で2006年文部科学省が初めて「ゼロ・トレランス方式の調査研究」を始め、ようやく広島県や愛知県などが先行して研究実践しているが「高校段階」がどうも適用に容易さがあるみたいである。それくらい「義務教育段階では難しい」と言うことではないか。
・ ゼロトレランスの批判派は「結果的に社会からドロップアウトする青少年を増やす」という根強い批判の声があるのは事実で例のヤンキー先生で有名な義家弘介氏などは「教育とは権威による導きではなく、情熱と愛情による導きである・・・」「寛容さは絶対に不可欠な要素」と述べている。
・ 確かに学校現場での教師の日常は「想定を超えた」「予期しない」様々な事件が次々と発生する現場であり、「生徒そしてその背後に立つ保護者の動き」も時に驚くような局面も時にあるが考えてみれば「均質性、等質性」を最初から要求するような対象ではないのである。
・ 一クラス40人の生徒がいれば「40様の生徒」とその子どもが生きてきた「成長の歴史」、そして義務教育であれば大きな「家庭保護者の影響下」にあることは「自明の理」であり、そのこと事態をとやかく言うのであればその教師は少なくとも「義務教育の教師としての適性がない」というべきかもしれない。
・ 確かにマスコミや一部の団体が「教師に増える心の病」とか言って「複雑化する学校現場の事件に翻弄される教師側」にたって「正当化する論理」を例えば「規範意識など家庭で教えられていない今日的生徒たち」「モンスターペアレンツ」などと言うが私には理解しがたいのである。
・ 「割れ窓理論」というが、要は「問題行動のあった子供を手っ取り早く、学校から追放」することが「残った生徒を助け、学校を守る」と言う論理であるが「本当にそうであろうか」。単に「手間のかかる生徒の目の前からの排除」で単に「教師が楽になる」ということではないのかという素朴な私の疑問である。この説明を求めているのだ。
・仮の話として 「次から次と子どもたちを学校から追放して学校が良くなったか、残った生徒は喜んでいるのか」と聞いても良い。アメリカも「9.11事件」以来、ますます「安易に停学退学処分をする傾向」が強まり「そこのけ、そこのけ、お馬(ゼロトレランス)が通る」と行き過ぎた「反省」が出始めていると言う。
・ 日本の法律は「高校教育」では退学や停学と言った「懲戒処分」が認められている。言って見れば義務教育を終えた子どもたちへは「懲戒」という形で「トレランスの幅」を狭めていると私は理解している。それはもう半分大人だからである。大人になれば「万引き行為」は「犯罪」であり、「喫煙や飲酒は法律違反」でありその路線上に近寄せた教育的指導もということである。
・ しかし義務教育では義務教育であるがゆえに「出席停止処分が限界」であるが、私学においては「12歳の中学1年生に学校からの排除」という措置がまかり通っている。ごくごく日常茶飯事に起きているのである。本校も例外ではない。むしろ「私学であればそうあるべき」との議論も聞いたことがある。本校の話ではないが。
・ 私学は問題ある生徒は容易に追放し「受け皿は公立」であるということが本当に正しいことなのであろうか。私は昨年以来「それはおかしくありませんか」と言ってきたのである。高い入学金を頂き、授業料も公立の数倍は高く、「様々な理由」から本校を選択してくれた「児童の首を簡単に切ってよいのか」という問題提起なのである。
・ 排除された12歳の子どもは「他の私学に転学するか」「公立に行く」しか選択はないのであり、本人も家族も「辛い日々」が続き、場合によっては一生心の傷にもなるだろうしそれこそ社会からドロップアウトする確立が高いと言う前述の指摘にはうなずけるものがある。
・ 確かに悪質で愛情のかけらさせ与えるにしんどいタイプの児童がいるかもしれないがそれを「内規」という、大昔に金科玉条のごとく教師だけが定めた「法律」を振りかざして、全員が「協議」というさも「民主的な方法」という賛否で決定していくと言うプロセスに私は教師の「思い上がりと無責任さ」を感じるのだ。大体「今日的児童の質的変化」や「入学を許可したのは我々という根拠の正当性」を揺るがすことだと思うのである。
・ そこには「教育者の顔」はない。あるのは「皆で排除を決めた全員の総意です」といった「教育の放棄」を宣言した無責任な顔しかないと思えて来たのだ。こういう事態を招く前の「ぎりぎりの努力」はせず「内規」を広げて、その「網に落ち込んでくる児童生徒」を待っているだけの教師なら、社会はそういう教員を先生とは言わないだろう。
・ 「やんちゃな私を最後まで守り教えてくれた担任の先生」と20年後に結婚式に招待されるような先生こそが「本当の先生」ではないのか。補導会議で担任が「排除側に回る」のも考えられない。余程のことである。こういうときに「保留」という訳の分からない姿勢を取るとしたら私などには理解できないことだ。
・ 「もう一度この生徒に機会をお願いします。今回のことは私の責任です。私の力で絶対に立ち直らせて見せます」と訴えて「責任を痛感」しながら他の先生に頼まねばならないだろう。担任ならそうあるべきでないのか。私ならそうする。 少なくとも一回、二回はそうするものだ。それが教師である。
・ 母親が泣き崩れ「どうか置いてやってください。お願いします。よく言い聞かせますからお願いします」と言って懇願しているのに顔色一つ変えず、声一つ変えず非情に「駄目です」と言い、逆に「母親を何とか諦めさせました」と自慢めいて言うような教師はこちらが「排除」したい。
・ 家庭の経済状況が苦しい中で「公立には絶対行かせません」。「無理をしてでもこの子は私学で学ばせたい」と本校を選択してくれた生徒と保護者だ。少子化の中でつい3年前には一クラス30人も集まらなかった学校だ。
・ 今ようやくこのようにして今年も3クラス120人が入学金を支払って頂いた。制服の採寸も終えた。私が学校説明会で言い続けてきた「面倒見の良い学校」が信頼されたからである。私が動いて動いて集めてきた生徒を簡単に「内向き内規」で生徒の首を切られてはたまらない。
・「大切に、大切に」しなければならない。それは「甘やかせることではない」。「簡単に排除することではなかろう。」しっかりと「教育をする」ことで「排除や追放」ではない。それは「最後の最後の最後の最後だ。その又最後だ。」。
・ 私は今「中学校の教員構成を反省」しているのだ。管理職も高校経験だけ、筆頭教諭も高校から、前教務部長も高校から、前図書研修部長も高校からで、中学校経験者は採用3年以内の若い先生ばかりだ。後は1年未満の常勤講師だ。このような構成にしたのは私の失敗であった。最も対象者が居なかったのであるが。
・彼らは中学生教育が分かっているとは思えない。 クラス数が6クラスで専任教員が7名である。内3名が国語の教員で、彼らは「朝読書」なども一切しようとはしなかった。こういう教師集団であったのだ。本当に私は「疲れる」。どうしようもないがしかし生徒の為に孤軍奮闘頑張って、諦めるわけには行かない。 校長は教職員と「闘ってなんぼの世界」であると思っている。校長が教職員の仕事を追認するだけなら校長など学校には不用だ。
・ 「浪速中学校生徒生活指導方法」を再構築する「浪速版ゼロ・トレランスの構築」である。これが大きな私のテーマとなった。早速「内規を見直すように指示」した。そして筆頭教諭に今日命じた。「何が教室の内部で起きているのか気配を察する仕組み」を考えて即刻実施するように言ったのだ。「生徒の声なき声を拾い上げろ」と。