2009年5月15日金曜日

5月15日(金)教員の残業

・ 12日の「臨時保護者集会」での教員の勤務について朝会でも議論したのだが、「2時間の時間外勤務手当を支給」するかどうかで迷っている。正直なところ内心では「冗談ではない」と言いたいところであるが、「理事長・校長が出席した会合」であったから今回に限り「了」としても良いかとの思いもある。しかしまだ内心は「?」の感じが残る。
・ あの会合は「臨時の保護者集会」、言って見れば「火事場」であり、教員の通常勤務ではない。「異常事態の緊急作業」である。「作業であり形は会合」なのである。「新型インフルエンザ」のためにやむなく海外修学旅行を中止したことの「責任者である校長からの臨時の保護者説明会」であり、「これは私の仕事」なのである。教員の本来の業務ではない。
・ しかも立ったまま2時間喋ったのは私一人であり、その間教員は受付や付き添ってくれていただけだが、そう言うと「準備したり椅子を並べたりの教員の作業はどうなるの?」と言いたいという気も分かるが、少なくとも「教員の残業と言う概念」ではないだろう。
・ 「火事見舞い」ということで手伝ってくれた教員に「一律金一封」を出すのであれば十分理解できるが「残業代」ではなかろう。このように理屈を立てて考えねばならない。先例となるからだ。本校ではこういうことを考えることの出来るのは結局私と事務長だけだ。教員出身の管理職では無理である。昨年9月以来の新勤務管理移行以来つくづくと分かった。「定時を超えていればすべて残業」と彼らは考える。
・ 日本の学校と言う学校で「臨時保護者集会」の教員の定時外を「勤務」として「時間外割増賃金を払うかどうか検討している学校」は日本広しと言っても「本校だけ」であろう。関係教員はそこだけは押さえておいて欲しいものだ。
・ 理事長・校長はお金の額は少ないとは言え、遅くなるだろうから「ペットボトルとパン数個」の「軽いスナック」まで用意して気を使った理由は「火事場見舞いの心配り」である。「世の中に残業代を出しながら軽食を出す職場」もあるまい。
・ 今寝屋川の公立高校で新型インフルエンザで大変な事態になっているがあの学校で教職員の勤務は大変な筈だ。教員はおそらく「へとへと」で府教委も橋下知事が「シフトを組んで対応」しなければ「ばてるだろう」と言うくらい公立の教員は仕事をしている。
・ 制度があるからこれを「使い尽くす」という態度ではどうしようもない。当然他を睨みながら「バランス」を取っていかなければ直ぐに「財布の底」が見えてくるだろう。見えたら私は「給与・賞与を躊躇せず削減」する積りだ。「財源」の限りはある。
・ 人事院勧告が出され今年の夏のボーナスは国家公務員も大阪府も大阪市も0.2ヶ月削減して遂に4ヶ月を割り込み3.95ヶ月と聞く。「本校は4.0ヶ月支給」することは既に仮決定しており教職員はこの辺も両睨みしておいて欲しい。
・ 昨年10月から「新勤務制度」に曲りなりにも移行し、公立学校から来た教員は「浪速はこんなに様々な手当があって、驚いた。本当に貰って良いのですか」という実態であるが本当に「教員の勤務は複雑で難しい」。
・ そういうところに長時間労働の抑制を目指して「労働基準法が改正」された。施行は2010年4月からだが「残業代の割増率や時間単位での有給休暇取得などの改正」などが盛り込まれているが、学校社会にどのように影響が出てくるのかいまだ読めない。
・ 少なくとも「浪速は時代を先行」して時間外勤務手当てを支払い、時間有給を認めるなど教員の働き方には「配慮」をしてきている。これは胸を張って私は言えることだ。世界がこの経済危機と今回の新型ウイルス問題などで従来経験していない新しい事態の出現に従来のマニュアルが役に立たない時代となってきた。それは間違いなく「労働環境の変化」をもたらしてくる。
・ 現実にもたらしているのだ。こういうなかで「労働時間の短縮」ばかりに視点をおいて物事を考えるのは最近間違っているのではないかと私は思えてならない。日本は少子化にますます移行し、「国力の低下」は目を覆うばかりで、誤解を恐れずに言えば「今、日本国民が戦後の復興と高度経済成長の時代」のように「より一生懸命働く」ということではないのか。
・ そういう時代の中での私立学校だ。「誰も助けては呉れない」。「要は自分たちで働き、稼ぎ、それを再生産の為に投資し、サイクルを回していくのが重要」であって「経営から分捕ってくる」という発想ではないと思うが、私の心配の種は「自分の足を食って生きていく」という感覚になってはいけないということだ。それは「自殺行為」である。
・ 労働時間の柔軟化を図るには「フレックスタイム制」「変形労働時間制」「裁量労働制」などがあるがいずれも一長一短である。「本校は変形労働制」を敷いている。特に額に汗して働く製造長の操作マンや自動車組み立て工などと違い「ホワイトカラーの働き方」は難しい。
・ 大学卒のホワイトカラーでも証券会社勤務や財務省、大阪府庁など色々職種はあるが最も難しいのが「教員の仕事」だ。昔みたいにただ教室で教えておけば良かった時代はとうに過ぎ去った。「肝心の子どもも親も質的に変わってきており、全てが学校に要求」としてくるのが実態だ。
・ まして私企業的な私立高校や私立大学は労働基準法の規制をもろに受けるだけに、振舞いが難しいし微妙である。特に「教員の仕事は裁量性が高い」し、労働時間の長さと成果が必ずしも比例しない。一々校長や教頭が指示を出すものではない。
・ だらだらやろうがゆっくりやろうが分かりはしない。教えた結果がパチンコみたいにすぐ「出玉」としては出てこないからだ。教育の成果にはすぐ判るものと時間の掛かるものとある。
・ 「労働時間と非労働時間との境界が曖昧」で前述したように臨時保護者集会の教員の居残りが、労働時間なのか、残業時間なのか私にもまだ良く分からない。しかし感覚的には「臨時保護者集会の準備と居残りは残業ではない」のではないかと言う気がするのだ。
・ 教員には「ホワイトカラーエグゼンプション」が本当に議論されるべきではないのかとい言う気がする。特に教員には「賃金計算の基礎となる時間」と「健康配慮措置の基礎となる時間」に分けて考えるべきではないか。健康配慮措置の中でも臨時の、即ち火事場見舞いみたいな労働時間(?)は又個別に考慮すべきではないのかという気がしてならないのだ。
・ しつこいようだが臨時保護者集会の椅子を並べたり、受付をしたりした労働時間は教員の基礎賃金を決める労働ではないだろうということだ。あれは火事場見舞いか通夜葬儀への出席に近いとい感覚だ。保護者の葬儀に出席する教員に残業と言うのはない。
・ 「生徒に教えるという本来業務」に関することは「資格の発露」であり「正当な対価」を支払うべきものだと考える。だから私は多聞尚学館での教科指導は「土、日を潰した貢献的本来業務」として教員の想像を超える手当を「本日の給与日」に合算して支払ったのである。「私の考え方、やり方は極めて明確」である。