2009年5月23日土曜日

5月23日(土)大学及びその周辺の当世的事情ー大学5年間

・ このブログは5月22日の「大学及びその周辺の当世的事情―就職活動」の続編です。

・ 確かに理論的には「技術技能の伝承」などと一時期言われて、若い世代の採用が取りざたされたが最近はさっぱり聞かれなくなった。これなど私は当初から「おかしい!」と思っていた。古い技術や技能の伝承など逆に「技術革新」から言えば「邪魔」である。技術は進化していかねばならない。伝承は歌舞伎などの「古典芸能の世界」だけで十分である。
・ 子どもの数は少なくなるが、大学は増え続け、企業は採用を厳しくするとなると「どういうことが起きるか」。「答えが現在の姿」である。大学は学生確保に「血眼」になって「指定校推薦状」を配りまくり、「AO入試」とかなんとか言って高校での成績と作文や面接などで筆記試験など課さずにいとも簡単に入学を許可する。
・ 驚くことに新大学生の45%がそのようにして大学生となっているらしい。だから漢字や簡単な英語、日本の福島県の県庁所在地を知らず、イギリスの首都は「パリ」などと言ったりする大学生が時に現れる。
・ 昔は大学生となれば社会から期待も込めて「尊敬の眼差し」みたいなものがあったが、最近は新地のホステスさんかと見間違うようなヤンキーな大学生や、いつ勉強しているのか分からないアルバイトが本職みたいな大学生が現れる。
・ そして実に大学卒業生の20%から30%は卒業年次に就職が出来ず、彼らは「フリーター」となり、「非正規雇用者」と呼ばれていくような運命を辿るのである。次年度も同じ現象だからそういう非正規は解消されるどころか「積み上がっていく」のである。
・ 先輩の姿を見ている後輩の大学生は大学に入った瞬間から「就職のこと」を考えており、これでは「おちおち」学問をするということにはならないのではないか。私の時代は4年生の10月が解禁で卒業まで半年もあれば十分だったが、いまや大学3年生になったら「気が焦ってくる」という。
・ 3年生の後半はまさに就職活動本番で「大学生ではなくて就活生」となるらしい。「就活生とは悲しい言葉」ではないか。そして運よく成果のあった者は4年生の5月連休明けには就職が決まる。この段階で6-7割が「就職勝ち組」というのだ。
・ この勝ち組がその後じっくりと「勉強しよう」とはならないだろう。「バンザーイ」と叫んで、後は卒業単位を揃えれば良いだけの話となる。まだ決まらない残りの学生は「目が引きつり」、もう学問するなどの気持ちはなく、「就活」で走り回るのだ。
・ 福井県立大学の祖田学長は文科省の大学設置・学校法人審議会委員であり、「大学教育の在り方」議論の有力メンバーであるが、この先生は「大学5年生」を提案している。入学後半年は「社会体験」を義務付け、最後の半年間を「就職活動」に振り向けるというのだ。なんと前後で1年ですぞ。
・ 要は「学士力回復」のため「まるまる」4年間は勉強の時間に取っておき、前半分は「社会勉強」後半年が「就職活動」というのだ。特に前半の目的は自らの意思で企業、農林業、観光業、地方自治体など社会のどこかで「ボランティア活動」を行い、社会経験を踏ませるというものである。
・ その後は10月になったら「大学に戻り」、専門の勉強をしっかりと行い4年後に初めて就職活動をさせると言うものだ。目的は「継続可能な職場」を見つけるための熟成期間で自信を持って社会に巣立つのであるとしている。授業料は4年分で良いという。
・ この内容は4月27日の日経新聞にあった記事であるが、私はこの先生のご意見を読んで「エー、マジ?」と思わざるをえないのである。例え授業料は4年分で良いとはいえ、学生を5年間拘束し、前半年は社会貢献に、後半分は就職活動と言っても「学生もいろいろ」で一律にはいかないだろう。ましてこの1年分の生活費は誰が負担するのか。学生保護者負担であれば「何をかいわんや」である。
・ 大体大学側だけの論理で考えている話で、先生が言われるようにこのシステムが何故若い世代の非正規雇用の解消になるのか良く分からない。又10月入社となれば企業社会の人事の季節は4月であり、定年退職者も10月まで延長させねばならない。
・ 大学院は10月から始めれば良いと簡単に言われているが大学院進学者を農業体験のために大学に来ることを禁止するには正気の沙汰ではなかろう。マスターコースは2年間である。このうち半年を社会経験などさせるべきではない。「研究とさらに専門性の向上」である。
・ 自分のところ、即ち大学だけは「良いところ取り」で4年間先にしっかりと取って置き、後は「上手くやってね」と言う感じで、賛同できかねる案ではない。世の保護者はこのアイデアにどのような感想を持つであろうか大変興味がある。
・ 私は思うのだ。この種の考えが出てくる背景は冒頭にあるように「大学生の学力の低下論」がベースにある。それを「学士力」と表現されている。しかしよくよく考えて見よ。全ての学生の学力が昔に比べてそれほど下がっているだろうか。
・ 祖田先生は京都大学を卒業され確かに頭脳明晰である。先生がご卒業された当時に大学に進学することの出来た時代は高校卒業生の「ほんの上積み」であり今は高卒の半分が大学に進学する時代だ。それぞれの平均値は大きく違って当然である。
・ 何時もこのような時に私は言うのだが40年前の18歳のトップ10万人と今のトップ10万人でどれくらい学力の差があるのだろうかって。全平均では比較にはならない。基礎学力の出来ていない「これでも大学生?」というのが現実に大学生になっているのだから、分析科学としては成り立たない話ではないか。
・ その1においても書いたように大学生の約半分は受験勉強などしなくても大学にいけるのだ。推薦入学、AO入試実に様々な方法で大学は学生を囲いこんでいこうとする。今や大学が「幼稚園」を抱える時代だ。大学は完全に学生の「囲い込み」の時代になった。
・ 全国800の4年生大学の半分は定員割れだ。大学人は「脅迫観念」にかられているのである。基本的に高校卒業数と大学定員数が逆転した「大学全入時代」である。人気のない大学、力のない大学は厳しい経営となり「来てくれる学生は無条件で受け入れる」という大学を私は現実に知っている。
・ 都市にある伝統のブランド大学に集中し、そこには学生は溢れかえっていても地方の私立大学は「閑古鳥」が泣いているというのが今の姿である。そういう状況にあって「日本の大学は一体どうなっていくのであろうか」。
・ 規模は小さいが私立の高等学校をあづかるものとして私は「かなりかなり複雑な思い」で生徒の「進路指導」を実施しながら「大学の行方」を注視しているのである。高等学校と大学の距離は近いというが私の感じは「遠い」。大学が見えないのだ。