2009年8月25日火曜日

8月25日(火)大学の体育会系の不祥事


・ 大学の「体育会系クラブの不祥事」が連続している。心配でならない。昔はこういうことはなかったというか少なかったことは間違いない。特に体育会系には「正義」を感じるような気配もあって「ノンポリ」とは違う「気位」みたいなものを感じたものだが、それらは何処に行ってしまったのか?
・ 社会を騒がす大きな事件になったものがいずれも近畿の大学であった。一つは京都教育大学の男子学生6人による準強姦事件だ。続いて近畿大学ボクシング部の2名による連続強盗事件だ。これなど暴力団も顔負けの手口で「これが大学生の仕業」と信じられない事件である。その前は同志社大学のラグビー部や京大アメフト部による事件など枚挙に暇はない。書けないくらいに「内容も悪質」である。
・ そして最近は多くの大学での学生による「大麻事件」だ。いまや大学キャンパスはもっとも安全な大麻取引場所といわれる。大学生の学力も駄目、スポーツ系学生による反社会的行為ときたら「一体全体、大学とはどういうところか?」と考え込む人は多い。
・ 「最高学府といわれ、知の拠点である大学」が何時からこのような「様相」を見せ始めたのであろうか。特に「大学スポーツのあり方」が問われているのではないか。米国を参考にすると良い。あの国は「大学スポーツの機構」が極めてしっかりしている。
・ 京都教育大学の6人組みの一人は無事卒業して何食わぬ顔で公立小学校の教員をしていたという。すべてが「覆面の社会」「偽装の社会」「仮面の社会」である。社会を「なめている」にもほどがある。
・ 24日の毎日新聞の朝刊には東海大学教授の久保正秋先生が「聞きたい」欄でご意見を発表しておられる。見出しは「体育会系大学生の不祥事」「大局思考訓練を」とあった。
・ 要はスポーツ系学生は軍隊に例えれば「小隊長」だと言われるのである。目標を与えてこれをやれと言ったらその通りにする。目標に向かってまい進するのだが「大局にたって物事をじっくりと考えるという訓練が欠けている」のだと言われている。
・ 又引用としてスポーツ社会学者の意見の紹介としてスポーツ選手は小さい頃から「瞬間的判断」を求められているから、これが「スポーツの脱思考現象」だというそうである。こういうとスポーツ選手は思考能力に欠けるみたいに聞こえるが、私は少し違うのではないかと言う気がする。
・ 芸能界の覚醒剤事件が毎日毎日報道されているが「芸能界とスポーツ界の不祥事も同じ構図」であると私は考えている。一言で言えば大麻や覚醒剤を使わなくとも、「もともと頭が麻痺」して来ているからこういう事件を起こす。
・ その頭の麻痺の原因は「謙虚さがなくなってきた」と言うことだと思う。芸人もスポーツ選手も「社会から注目」される比重は「際立って大きく」なってきている。とにかく「一発当てる」ことばかり考えており、「額に汗して」というものが彼らには感じられない。
・ 「下済み時代」を経験し苦労に苦労をして「世に出る」ということではなくて一発当てれば、マスコミが「引っ張りだこ」にして一夜にして脚光を浴びる。今若者にとって手っ取り早い世に出る方法は芸人になるかスポーツ選手になるかだ。
・ 「最初からスポーツで飯を食う」という思い込み、「食える」と思って「錯覚している層」が増えてきていると言うのは久保先生と同じだが、そこに「人生への謙虚さがない」というのが私の見方だ。昔の人は「足が地についていない」という表現をした。
・ 我々の時代では「体育会系学生は就職にも強かった」がその理由はスポーツそのものではなくて「全人間的に素晴らしい人」が多かったからである。スポーツで鍛えられ、集団の中での立ち振る舞い、敗者への労わり、気配りなど単に学力だけでは計り知れない良い点を間違いなく彼らは有していた。
・ 私の居た企業でも野球、バレー、バスケットなど有名な選手が入社して一般の社員と同じキャリア育成で年月を重ね、「幹部に昇進」していった。大体「営業部門」に多く配属されていた。彼らの「人柄」が客筋に好感度を持って受け入れられたからである。
・ 大体スポーツで飯が食えるのもほんの若い時だけでその後の人生80年、スポーツあるいはその関連で生きていけるのはほんの「一握り」である。ここを考えたら「勝手気まま」に振舞うことは出来ない。このことを「考えておくことができるかどうか」だろう。
・ ところが彼らは小さい頃からその分野で「スポーツエリート教育」を受けてきて親の期待もその分野であるから基本的に議員の世襲問題みたいなもので「生きてきた世界が極めて狭い」のだが、そこが「社会のすべて」だと錯覚してしまう。「井の中の蛙」である。
・ だから「お山の大将」であり、「向かうところ敵無し」で周囲も「ちやほや」するものだから判断力のないスポーツ選手は「何でも出来るし、許される」と思っているのではないか。「ま、良いか」「許されるだろう」と「甘い考えで自分を肯定」するのだ。
「芸もスポーツも才能のない学生」はただひたすら勉強をしながら自己の良い点を見つけ出し、そこで勝負しなければならないから不祥事などトンでもない話となるのである。「全人間的にバランスを取って成長」しているのだ。それに付き合う友人の幅も格段に広いだろう。
・ そして「社会は芸人やスポーツ選手の不祥事に甘い」面がある。先にスマップの草薙というタレントが深夜に公園で真っ裸になって大騒ぎして警察に逮捕された事件の時、社会の論調はこれを簡単に許した。若し大手企業の社員がそのようなことで逮捕されたらその人間は「一巻の終わり」になっている。
・ しかし考えてみれば圧倒的に多い大学のスポーツ選手は真面目にやっており。基本的には一部の学生の所業と思うが、比率が徐々に増えているのはやはり「社会のあり様の影響」を受けているのではないか。
・ 別途書くが戦後の「大学は出たけれど・・・」の時代になってきている。そういう中で「手っ取り早く金をもうける方法」としての芸能界、スポーツ界入りを目指している風潮の今日的社会だとしたら何か「一発風船」みたいな「空虚さ」を感じるのである。
・ 「この際大学スポーツのあるべき姿」について考え方を整理する必要があるのではないか。「猛練習に次ぐ猛練習」「厳しい上下関係」「監督やコーチとの師弟関係」に「精神の構造をコチコチに固められた」大学あるいは到達点としての大学生のスポーツ系学生は「フラッ」と判断力が薄まり、「地獄の谷」に落ち込む瞬間があるのだと思っている。
・ 本校は「文武両道の学校」で多くの選手を大学に送り込んでいるが今まで全く問題を起こしていない。それは「武よりも文を優先」させてきているからである。武文両道,武武ではないのである。それで大学側からも浪速卒業生は「人間的に立派」と評価されているのだ。それは本校の伝統とスポーツの指導者が素晴らしいからだと思っている。今後ともこの線だけははずしてはならない。浪速高校スポーツは「人間教育」そのものなのである。