2009年7月31日金曜日

7月31日(金)7月最終日








・ 「7月も最終日」となった。当たり前だが明日からは8月となる。夏休みだが結構忙しい。7日からは本校独特の「夏季リフレッシュ休暇」としてあるので「教職員はこれを楽しみ」に毎日を頑張ってくれている。
・ 「夏休みは生徒の休み」であって教職員の休みではない。給料を払っているのだから勤務日は働いて貰わねばならない。「学校の先生って、良いですね。休みが多くて」などと言われてはならないのだ。
・ 本校は昨年から「変形労働制」を導入し勤務時間を調整して「8月に長期の休暇を制度化」している。それが今年は7日から18日までである。「堂々」と休みが取れて秋口に備えるまさにリフレッシュ休暇である。

・ 朝、弓道部から副校長に「2回戦で敗れた」との報告があったそうだ。相手は甲府工業高校で14中対15中でたった一本の外しでトーナメントに勝ち残れなかった。残念だが又次がある。夕方、学校に戻ってきた監督と顧問、主将から校長に報告があった。
・ 一方ではボクシングではO教諭から「喜び勇んだ声」が届いた。東京の駿台学園高校を負かしたという。ポイントは8対4であったという。これでS選手は3回戦に進む。段々と強豪選手が残ってくるわけで頑張って「日本チャンピオン」になって欲しい。

・ 前の校長先生がというより歴代の校長が何十年に渡って使ってきた机はもうあちこちが痛み、塗装もはげはげだから「再生」を頼んでいたのだが一応出来たから見に来て欲しいと連絡があったので河内長野の木工房に出かけたのである。
・ 何と何と「素晴らしい出来」で再生されていた。そこの社長いわく「大正時代のものですべて手つくり、釘一本使ってない名品」ですといわれる。私は自分で言うのもおかしいが「物を大切にする男」だ。
・ 趣味は「骨董市巡り」だからこのような古いものは絶対に捨てない。予想とおり「良いもの」だということが分かった。全く同じものを私が今使っている。これも塗装がはがれ見た目は相当痛んでいるが社長の言うには「桜の木」を使っており今の時代このように「ほぞ」で組み合わせるようなものはないということらしい。
・ この二つの机はたとえ新校舎が出来ても理事長用と校長用として大切に使っていくようまだ若い事務長補佐に伝言としてきつく伝えたのである。後々若い校長が「このような古臭い木の机は嫌いだ。スチール机が良」と言うのを心配して「木村の教え」だと「歴史の証人」として申し渡したのである。

・ 前後するが昨日野球部の監督をお呼びして「来季の指揮」もお願いした。野球部保護者会の会長と会計の方も同席で満場一致で決め、学校からは「金一封」を慰労としてお渡しし「昼食会」を実施したのである。私は平群に出かけたので同席できなかったが大変良い雰囲気であったという。
・ 朝一野球部の顧問が新しいユニフォームが間に合わないので秋季からではなくて来春からにしたいと行って来たので「」とした。まあ年度が替わって甲子園予選から使い始めるのが良かろう。
・ 「雅楽部の外部講師」の先生をお呼びして4月以来の感想を伺った。この先生は大阪神社界は言うに及ばず日本で広く知られた雅楽奏者で本校雅楽部の指導をお願いしているのである。大変良いお話を伺った。
・ これを受けて昼休みに顧問の男女の先生を部屋に呼び私の所信を伝え頑張るように激励したのである。ブラスバンド部はすぐ生徒が集まるが雅楽はしんどい。「楽器を揃え、正式な服装も新調」した。まあ時間はかかる。焦らないこととした。

・ 中学校の本格的な「夏季学習練成合宿」が明日から始まる。まず3年生全員が明日から3日まで、その後4日から6日までが2年生となる。「週末スペシャル」はすべて高校生で埋まっているので中学生には長期休業中にしか取れないのだ。明日は私も行って開校式で「激励」をしなければならない。
・ 同じタイミングで「高校2年のトップ30」が開かれる。超優秀層に難関大学の実際問題を解かして解説し解かして解説するという極めて「厳しい」内容の「地獄の特訓」みたいなものである。
・ 明日は「英語」で担当講師の二人の教員が幾分「興奮」して作成された教材を持って説明にきてくれた。もうこうなるとそんじょそこらの予備校などは目ではないほど内容が高まっている。しかし生徒にはしんどい辛い話だと思うがここを乗り切らないと難関大学など夢に終わってしまう。
・ お盆明けの21日からは「週末スペシャル」が再開され3年生の古典と英語で80名が二泊三日の合宿、その後25日から27日までは1年生の理数科とR1R2で合計117名が大挙して多聞尚学館だ。多聞は「大入り繁盛」である。
・ このように今や「夏休み」と言ってもゆっくりと休むような学校はない。「新型インフルエンザ」で1週間臨時休校となったから全学年お盆明けから正式の授業となった。仕方がないことである。私は「心を鬼」にして生徒を追い込んでいるのである。

7月30日(木)平群町とボクシング











・ 二日続けての奈良県入りである。今日は「ボクシング部の応援」だ。場所は「平群町」というところである。「へぐり」と読む。“へいぐん”とは読まない。最初に“へぐり”と正しく読む人は相当な物知りである。私は知らなかった。
・ ところがこの「平群」と言う町は歴史上大変有名なところで「古事記」にも出てくる地名だという。「勉強が足りない」。「反省、反省」。生駒信貴山脈の東側に位置し、名前の由来は大和朝廷から見て辺境の地であったことより「辺郡、平郡、平群」と変わって来たとものの本にはある。
・ アクセスはまず今日も天王寺に出てJR大和路線で「王子」に出る。たった15分ほど大和路快速は王寺に到着。改札を出れば左に直ぐ近鉄の「生駒線」の駅があった。ここからは平群までは一本である。王子と生駒の往復線であるが電車の視界に広がる風景は緑が多くて素晴らしいものだった。
・ 北は生駒市、東は法隆寺のある斑鳩町、南は三郷町で西が生駒を挟んで東大阪、八尾に接している。町には「古今集」などに詠われた「竜田川」が北から南に流れ、良い街だ。大変気に入った。
・ 昭和40年代から大阪のベッドタウンとして開発が進み、人口も2万人となっている。ここには有名な「長屋王の墓所」がある。天武天皇の皇孫であるが「「長屋王の変」として知られる「日本史の大学入試問題」には外せない部分である。
・ 「陵墓」であるから宮内庁の管轄下にあり、その他吉備内親王の陵墓もあり、なぜ都から遠く離れた平群にあるのか、良く分からない。今日は参拝する時間は無かった。是非平群町には再度来たいものだ。
・ 今日は「まほろば総体ボクシングの応援」である。S君という有望選手を抱えており初めて私は「高校ボクシングの実際」を観ることが出来た。何回もこのブログにも書いてきたが俳優の「赤井英和」さんは本校ボクシング部のOBである。彼は昭和53年の高校総体で全国チャンピオンになった男である。
・ 一人こういう傑出した人物が出るとそれは「大きなブランド」となり、「伝統」を引き継いでいく。残念ながら今は部員数も少なく一時期ほどの「隆盛さ」はないが、それでもこのように大阪代表になれる選手が出るのだから、それはそれで大したものだと思っている。昨年もすごい選手が居て特待生で近畿大学に進学した。
・ ボクシング会場は町立体育館を充てたもので特設リングが2面あり、素晴らしい会場となっていた。ところが平群駅からはとても歩いては行けず、タクシーを待って全く知らないお二人とシェアして乗ることになったのである。
・ 均等割り勘で300円、車は小高い丘の上の体育館に出た。途中の町中に「高校総体ボクシング会場ののぼり」があらゆる場所にところ狭しと立てられており突然にぎやかになったような感じであった。
・ 「フェザー級」とは読んで字のごとく「羽毛」ということで比較的軽いクラスである。プロとアマチュアでは異なるがアマチュアではライト級とバンタム級の間で軽いほうから確か5番目だろう。
・ 終業式においてS君を激励したとき、「これから体重を落とします」と言っていたようにボクシングはかっちりした体重との戦いでもある。しかし「」などは筋肉隆々で練習の後が伺える体つきであった。
・ S君は「性格も大変良く」多くの生徒や教員から信頼されており、今や大変有名な選手で多くの大学から勧誘がかかっており、直接私のところにも話が来るほどである。試合はほぼパーフェクトで「ポイントは14対2」であったから言うことなしの「勝ち」であった。
・ 一日1試合だから明日が2回戦である。組み合わせは東京代表の駿台学園高校となった。明日は行けないが頑張って欲しい。青コーナーからリング中央に飛び出していくさまは完全に「絵になって」いた。
・ 今日じっくりと見学したが高校ボクシングは完全に「スポーツ」である。礼儀正しくけじめがついており「一つの完成された形」の中で選手は「勇気」を奮い起こして闘っていたが、あれは「前に出る、手を繰る出す自分との戦い」だと私は感じた。


・  部長監督は「入試広報室長」を務めるO教諭で赤井さんを育てた人だが、とにかく熱心で今日も「セコンド」としてあたっていたがとにかく生徒の信頼の厚い先生だ。昨日電話があって「抽選が終わり今日の2時ころに試合」というので私は時間を見計らって到着したのだがなんと試合は2時2分であった。なんと言うことだ。

2009年7月29日水曜日

7月29日(水)高校総体弓道部の応援







・ 「近畿まほろば総体」という。正式には「全国高校総合体育大会」という。いわゆる「インターハイ」と言われるものである。分かり易い言い方として今年は奈良県が主体で行われるから「まほろば」である。インターハイとは大学選手権のインカレ(インターカレッジ)をもじって「インターハイスクール」から来たものである。
・ 28日に「皇太子様」をお迎えして奈良の鴻ノ池陸上競技場で開会式が行われた。「高校生アスリートの夏の祭典」である。競技会場は近畿の2府4県が共同で受け持っている。「平城遷都1300年」が来年だから言ってみれば「宵宮」みたいなものだろう。
・ スローガンは「君が今歴史の新たなページを創る」であり、全国から25000人以上の選手が参加する。大阪府選手団は役員監督106人、選手691人の大選手団である。この中に「浪速高校の弓道、空手道部、ボクシング部」の選手が含くまれているのだ。
・ 「硬式野球の全国大会(甲子園)」やこの総体など「高校性対象のスポーツの競技会」がこのように機能し、発展している国は世界中ないと思う。素晴らしいことだ。「高校球児は甲子園」を目指し、「アスリートはこのインターハイ」を目指して汗を流して努力する。
・ 「 ラグビーもサッカー」もすべてそうだ。最近では「クイズ」や「俳句」「作文」などの高校性全国大会も出てきている。大変結構である。校長の立場としてこのような大きな競技大会に自校の生徒が出場するのは「嬉しい」し、「誇り高い」のである。
・ さて今日は「弓道の応援」である。場所は奈良県立樫原公苑第一体育館である。公園ではない公苑である。午後天王寺に出て近鉄南大阪線樫原神宮前駅で下車すれば徒歩で10分のところに会場はあった。弓道部長のY教諭が会場入り口で待っていてくれた。誠実な先生である。
・ 第54回弓道競技大会は今日から本格的に競技となる。12時から男子団体予選でこれに間に合うように出掛けたのである。プログラムを見ると「弓道は古式ゆかしく」「矢渡し」というのが昨夜行われ、最終日は「納射」というのもあるとプログラムにあった。
・ 参加料というものが当然あり、団体競技では1チーム23000円、個人競技は一人当たり2500円をすでに振り込んでおかねばならない。なんでもこのように「ただ」ではないのである。
・ 面白いことに「宿泊場所」も決められており勝手に「どこどこに泊まります」と言うわけにはいかないのである。「配宿センター」に申し込むのであるが。それはトラブルを避けるのと宿泊料金の統一性を考えたものだろう。特AクラスからEクラスまで6段階に分かれており13860円から8085円である。朝食夕食付一泊の値段である。
・ 事務局もしっかりしており、キャンセルのないように「予約金一人当たり4000円」を事前に支払わせている。取り扱い銀行も面白いではないか。すべて「南都銀行」で奈良の銀行である。三井住友銀行や東京三菱などはお呼びではないのである。
・ 弓道には一つの特徴があって公立学校が結構頑張っている。またどちらかと言うと工業高校とか商業高校が頑張っているのだ。例えば2007年度のデータでは男子が鹿児島県立鹿児島高校、2位が熊本秀岳館、3位が 女子は県立沼津商業、川崎市立川崎商業、慶応女子高校の順番である。
・ 大阪府では女子が圧倒的に好文学園、昔の福島女子で男子は我が「浪速」である。全国高校弓道専門部の部長はこの好文学園のS先生が担っており、素晴らしい指導者である。そして今明らかにするのだがこのS教頭先生が「浪速の卒業生」なのである。
・ 私は「神社神道の学校として武道を奨励」している。伝統ある本校の弓道を重要視しており私なりの応援をしてきた。「新武道館」も弓道場はその一角を占めるのである。弓道の指導者を探し求めていたがようやく前述のS先生の紹介で現在本校の常勤講師のW先生をこの4月から採用できたのである。
・ 高校弓道界で有名な強豪校である「熊本私立秀岳館高校から立命館大学」に進み4回時には「主将」を務めた人物で弓道4段、弓道暦は10年を超える。この話をS先生から受けたときに「すぐ会いたい」旨を伝え、面談したのが一昨年の12月も押し迫っていた。会って5分で「採用を決めた」人物である。
・ 誠実で沈着冷静、誠に人間としても「品格」があって私は一目で気に入ったのである。この先生は故郷肥後銀行の就職が内定していたが、正月に帰省したときに母校の秀岳館の恩師、ご両親、肥後銀行から円満に内定辞退が受け入れられるのであれば「君を本校の教諭ならびに弓道の指導者として招聘したい」と言って別れたのが遂この前のことであった。
・ 見事に彼は短期間で成果をあげてくれ、もともと強い弓道部をさらに強くしてくれた。今度の大阪府大会は男子は圧勝であり、女子も個人で好文学園に少し肉薄できるようになってきた。女子の指導者にも恵まれている。
・ これで弓道部は部長以下「人材が揃った」のである。これに新しい弓道場でも完成すれば「向かうところ敵なし」となるだろう。今まで全国3位が最高成績だというが是非個人か団体で「日本チャンピオン」になって欲しい。
・ 新弓道場も出来るし新指導者も手に入れた。これも「木村改革」の一つである。しかし今日初めて弓道の試合と言うものを3時間たっぷりに見学したが、なかなか「面白い」。観覧席はY先生が確保してくれていた。エアコン付で良い試合会場であった。
「用語」なども独特のものがある。それを隣のY先生が詳しく教えてくれるのだ。大体覚えたような気がする。大阪府代表の本校男子チームは予選を良い成績でクリアした。目の前で的が射抜かれるのだから一目でわかるのだ。
・ 一人が4回射て5人のチームで的中数を競うのだが20的で本校は「15中」であった。一人が4つとも命中すると「皆中」と言って会場から「大きな拍手」を貰えるのだ。応援の掛け声は「よし!」以外には許されていない。
・ しかし「弓道は厳しい競技」だ。ものすごい「緊張感」の中で的に向かっていかねばならない。可哀相に他校の中には一つも当たらない選手も結構いたのである。そうかと思えば4的とも中心に当てるつわものの選手も居たりで、「本番での精神力」がものをいう競技だと思った。練習で幾ら当てても意味はない。本番である。
・ 保護者も私の姿を見て挨拶にきてくれた。「M主将」も試合後喜んで来てくれた。彼は3的を射た。皆さん嬉しそうだった。それはそうだろうと思う。弓道などは特殊なスポーツで本校くらい強くなると有名私立大学から「引き手」が山ほど来る。会場には「大学の弓道部の関係者」が目を皿のようにして有力選手を探しているのである。
・ Y先生の案内で帰りに「樫原神宮」にお参りして私は気分良く難波に戻ってきたのである。「弓道は白い着物に黒はかま」と決まっており、今日は私も「着物」を着て行ったのであるが、それだけに気分が乗った応援であった。

2009年7月28日火曜日

7月28日(火)硬式野球部5回戦で敗退







・ 「大阪府高等学校硬式野球大会(夏の甲子園大阪予選)」、残念ながら「5回戦」で敗れてしまった。相手は関大北陽である。「スコアは4対6」でもう一歩であったが点数は関係ない。負けは負けである。しかし「良い試合」であった。
・ 後攻の浪速は9回の裏で1点を入れ4対6となりランナーはなんと「満塁」である。「一打長打が出れば逆転」という場面であった。確かに長打が出たのだが50センチくらいでファウルとなり得点には結びつかなかった。
・ 本校のピッチャーはK君で背番号は1だから「エース」である。北陽は事前研究が徹底されており彼のもち球「スライダー」を振らなかったから、低めやワンバウンドがキャッチャーの後逸を招き点を入れられたのが痛かった。特に1回表で死球が二つ続き、初回に「むざむざの2点」が結局後にまで響いた形となったのである。
・ 北陽とは昨年対戦して本校が勝ち、この春の大会では敗れ、3回目の戦い、まさに「雌雄を決する戦い」となったが「残念である」。「悔しーい!」。しかし選手は大変良く頑張ってくれた。
・ この6月に「関西大学と特別連携の調印」をしたことより関大北陽とは「親戚みたいな関係」となったがそれだけに勝ちたかったが勝負は時の運、結果を受け止めるしかない。本校のI部長は冷静な見方をする指導者であるが「地力」では北陽が少し上だと言っていた。
・ 私はどういうわけか「野球が好き」であったが、球技のセンスは全く駄目だったから小さい時からレギュラーになどとてもなれず、何時も補欠であったので早々と野球は諦めて高校時代は「水泳部」に属していた。
・ 「生まれ故郷の広島」と言う土地柄は「広島カープ」という地元球団があり、田舎球団であったが何時も熱狂的なカープファンの父に連れられて「広島市民球場」に出かけた思い出は今でも残っている。
・ 会社員になってからは、場所も関東と言うことで、熱烈な「長嶋茂雄信」となりそのせいで「巨人戦ばかり」テレビで見ていた。その当時から何で「阪神ファンはあそこまで盛り上がるのか」、今でも理解できないことの一つであった。
・ とにかく「高校野球は面白い」。面白さの由縁は「純粋」だからだろうと思っている。「高校球児」という言葉があるが本当に彼らは3年間一生懸命に頑張ってきて「燃焼し尽す」のである。
・ ベンチには20名程度の所定の人数しか入れないがスタンドで声を枯らして応援する「控えの選手」を見ると私はその「せつなさ」に目頭が熱くなる。3年やってもこのような府大会レベルには一回も出たことにない部員は多い。
・ 本校みたいに部員数が120名などというと「多くはスタンド要員」となるが彼らは心中では「グラウンドに出たい」事は間違いないであろう。しかしそういう気配はおくびにも出さず応援する。私は「その姿に感動する」のである。
・ 特に高校野球ではキャプテンの「求心力」が極めて重要で今年のキャプテンのN君は人間的にも素晴らしい生徒で私も大変良く知っているのだが、さすが「浪高の主将」を任されるにふさわしい人材だ。
・ 試合後全員が揃った時も「泣きじゃくって」いた。そして「控えの選手に敗戦を謝り」、、「3年間素晴らしい仲間と野球をやって来れて幸せだった」というのを聞いた時は私も思わず熱くなったのである。もともと涙もろいがこういう場面は駄目だ。「涙が出る」。
・ 監督も泣いていた。こらえているのだが顔がゆがみながらも選手職員を一人ひとり肩を抱いていたのである。本校専属のカメラマンの社長も目を真っ赤にしてシャッターを押していたのである。
・ 写真で私の左側が主将のN君である。これで「3年生は完全に引退」となって秋の大会からは1年生2年生で戦うことになる。今のメンバーで内野守備はすべて2年生だから来年はより期待できると部長は言っていた。後は良いピッチャーを育て上げるのだ。
・ 明日は私は奈良の方に「まほろば総体」で出かけるので監督と部長が30日に校長室に来て「シーズン終了の報告」が正式になされることになる。硬式野球の監督は本校で唯一の外部招聘の指導者である。最も本校のOBで1回目に甲子園に出た時の主将であった人だ。
・ これで3年間監督をお願いしてきた。一応の「節目」であり来年度どうするかであるが個人的には来季も采配をふるって欲しいがご本人のお気持ちも聞かねばならない。今日勝てばベスト8に入ったわけだが、まあ良い試合をしてくれ、この「監督の求心力」もあり、生徒も信頼しているのが見て取れるだけに来季も現状スタッフで行きたいと思うのだが・・・。
・ 本校は「特待生制度」を取っていないだけにまさに「文武両道」の学校であり、進学校なのだが「チームワーク」でここまでこれると言う典型的なケースである。まさに本校野球部は「高校野球のモデル」みたいだと私は自負している。
・ 明日は奈良の樫原で「弓道のインターハイ」があり、30日は「ボクシングのインターハイ」が同じく奈良の平群というところである。是非応援に行きたいと思っている。若い高校生がひたむきに闘っている姿を見ると「自分まで若返る気がする」。
・ 「 学校が安定」しているからこそ、このように校長が外部に出かけられる。このことが嬉しい。私が行くと選手諸君は「歓声」を上げて喜んでくれるから尚更やめられない。今私はしみじみと「良い学校に勤務できている幸せ」を感じているのだ。

2009年7月27日月曜日

7月27日(月)多聞尚学館の食事







・ 吉田兼好の書いた「徒然草」風に言えば「今、浪速で評判なるものは多聞の食事、中でもご飯といふべきなり」と言ったところか。とにかく「多聞尚学館の食事の評判」がすこぶる良い。
・ 「多聞というハードウエア」は完成した。しかし「ソフトウエア」はこれからだと思って私は多聞から帰ってきた先生へ「生徒のアンケート結果」義務付け、詳細報告を受けている。改善すべき点があればそれを「クイック」に「対策に反映」するのだ。
・ その中で「食事に関してのクレームは殆どない」のである。無いと言っても良いくらい「宿泊者の評判が良い」のである。もちろん「値段あってのものであり」、一流料亭の料理ではないのだから、「一般的な常識の範囲」での話である。
・ 多聞開館に当たって様々な仕事があったが、実はこの弁当屋さんを探してきたのは進路指導部長のN教諭である。それも「たまたま偶然」らしい。千早赤阪村に近くて「仕出し」をしてくれそうなところをネットで探し、最初に訪ねたところが今のお弁当屋さんである。
・ 河内長野駅前にある「和風茶屋 中谷」という。お店の名前は和風茶屋とあるが、お店を譲り受ける前の名前で、今は普通の「お惣菜屋さんであり、お弁当屋さん」である。「試食会」まで行い館長以下皆の「合格サイン」を得て「とんとん拍子」に契約がまとまったのである。
・ 経営者は女社長さんで何と千早赤阪村出身でこの辺の地理にはめっぽう詳しく、私は「縁の近さ」を感じたものだった。当初は「お弁当箱」方式、すなわち「ランチボックス」スタイルでスタートしたが確か2ないし3回目の時に英語科のM教諭が今日的スタイルで「バイキング形式」のアイデアを出して、私は「飛びついた」のである。
・ これはお弁当屋さんにもすぐ受け入れられた。それはそうだ。いちいちプラスチック 箱に入れなくて済むし、第一「ごみが出ない」から「エコ」なのである。生徒も大変喜んでくれた。
・ ところが当初の問題は先に食べるグループは好きなものを多く取るので、遅れて席についたものは残っているのは「お漬物」のみという事態が発生し、それからは2班に分けるなど工夫している。
・ このお弁当屋さんは手間暇惜しまず頑張ってくれており、「食育」の点でも言うことはない。長期休業中などの「ロングステイ」では朝にトーストやパンを持って来たりして「メニュー」にも工夫を凝らしてくれているとのことである。
・ 「姉の女社長」はお店を仕切り配達もかねている。多聞に篭って仕事をするのは実妹のお方だ。「美人姉妹」である。妹さんは多聞でまずお米を研いで大きなガス釜で焚き、「ほっかホッカ」のご飯を大きな「ジャー」に入れて食堂に運ぶ。これが大変良いのだ。「ご飯くらい温かいものを」という私の「思い入れ」なのである。
・ 終われば食器を洗い、すぐ次の食事の準備となる。「朝昼晩と3食」のご飯の用意は大変な「労働」であるが、これが「ビジネス」だろう。「おかず」は河内長野のお店で作り車で姉の女社長さんが「頃合い」を見て運んでくる。「大変な作業量」であるが今までのところ「トラぶった」ことはない。余程「責任感」が強いのである。まさしく「プロの仕事」である。
・ お米は学校支給として「超一級品」の10キロ5000円の「コシヒカリ」を最初から使ってきた。これは前の前のPTA会長さんが大きな「お米屋さん」だからお願いしたのであるが、特別に良いものを用意してくれていたのだろう。
・ 「有難いことである」。しかし高校生には少し「贅沢」かも知れないと考えており、予算もあるので「普通のお米」にすることにした。とにかく館長も強調するのであるが「冷えても美味しいお米」というのである。温かいご飯を食べるために多聞で炊飯しているのであって、冷めても美味しいお米を使う必要はないと私は考えた。
・ 朝食代は350円、昼食代も350円、夕食は800円で3時の「おやつ」がつくときは「100円から200円の範囲」で実費としている。主食の米は前述したように学校手配であるが大体一食当たり63円という計算になりそうだ。まとめれば一日の食事代は1689円ということになる。
・ 炊事係のいわゆる「手間賃」は一食当たり「5000円」の契約であるから「週末スペシャル」で二泊三日となると「6食分で3万円の手間賃の支払い」である。60人の生徒とすると一人当たり述べ三日間で500円の計算だ。この分食事代に上乗せされていると言うことだ。「少し高い」と言う声がある。「ご飯を運んで貰えばこのお金は要らない」わけで今後の相談項目だろう。
・ ご米を洗い,ガス釜で炊飯し、生徒の茶碗を並べ、それを洗い、汁物を用意したりし、ごみを片付けの作業だから「楽な仕事」ではない。しかし60人を超えるときは一人の「補助員が必要」でその人にも2000円弱の支払いがある。
・ 多聞尚学館はもともと「多聞小学校」だったから「家庭科教室」があり、そこには大きな洗い場所や調理場やプロパンガス設備などが完備している。「明るい採光の良い部」で何時行っても「清潔に掃除」をしてくれているのである。
・ 多聞尚学館は正式に「学校地」として大阪府から認定を受けたから「保健衛生」は極めて重要な管理項目である。給食に当たる人の服装や衛生管理はより重要である。この面について事務長より正式に給食業者さんに説明して理解を頂いたそうだ。
・ 「多聞尚学館利用計画から年間売上高をシミュレーション」すると「すごい売上高」となる。それはそれで良いのだが1社への負荷が大きいということは「リスク」でもある。100食分を日に三食用意するのはとにかく易しい仕事ではない。
・ 私は急遽「蓋つきの丼茶碗」を150個用意するように事務に指示した。どうも最近昼食には「どんぶりもの」が多くて普通の飯茶わんでは小さすぎるし、食堂でいちいち入れていくのでは時間がかかって仕方が無いからである。調理室であらかじめ作っておくのである。
・ また新型インフルエンザ等で対応が出来ない、食中毒で営業停止などに若しなれば困るのは生徒である。「バックアップ業者をもう一社ほど用意する必要」があるのか検討するよう館長と事務長に指示したところだ。
・ 「学校と生徒を守る為」には業者さんを代わって貰うことに時間を掛けない。「食事の質が落ちた、量が不足している、余りにも利益第一主義」などが感じられたら即刻代わって貰う。ここは「学校の分校」であり、「学校給食」と考えなければならない。
・ いずれにしても8月末までに2学期以降の多聞のあらゆる面での「ソフトウエア」について4月以降5ヶ月間の「レビュー」をして「あるべき姿」に近づけなければならない。業者選択もそうだが、トップインテンシブなど「コースの改変」も必要だ。又教員に支給している「多聞特別講習の手当て」についても一度整理をしていくつもりである。

2009年7月26日日曜日

7月26日(日)闇専従


・ 衆議院が解散されて与党の自民党と公明党に対極としての民主党とその他野党との「政権選択選挙」が本格化してきた。しかし私はこれは「終わりの始まり」でただ一回の国政選挙で決まるはずは無いと思っている。
・ それは「勢いに乗る民主党への危うさ」を強く感じてならないからである。「この政党で本当に大丈夫だろうか」という心配だ。最も「落ちるところまで落ちた自民党」だから相対論で民主党への期待は大きいらしいが、今のままでは「早晩行き詰る」ことは「明々白々」ではないか。
・ 民主党は余りにも「ウイングが広すぎる」。自民党も元来は「広い政党」のように思われてきているが広いのではなくて「軟体動物というか何でも飲み込む政党」だっただけのことである。これに対して民主党の広さは強固な信念に基づく「左派と中道右派の混成部隊」だからである。
・ 余りにも「組合」とベッタリし過ぎている。これは後々大きな混乱を生むことになろう。恐らく自民と民主が流動化して「健全な二大政党へ発展」していくことになるのであろうが、紆余曲折は今後もあって、本当の意味での二大政党時代はもうしばらく時間はかかると考えておいたほうが良い。
・ 今のままで民主が政権をとっても基本的には「構造」が変わらないのだから「子供手当てがいくらいくら」と言った程度の論争にしかなっていないのが極めて残念である。戦後60年の労働組合主義の光と影を論考して労組のポジションを明確に確認しないと折角ここまで進んだ企業社会、教育界などに起こる「反動」を私は心配している。
・ 格好の記事がある。7月中旬の夕刊で各社大きく取り上げていたがその翌日の朝刊では「読売新聞」だけが極めて大きな取り扱いで報じている。「異例」とも言える「社説」を含めた5面にわたっての報道だから「力の入れよう」が分かる。久しぶりに読売は「骨のあるところ」を見せた。
・ 内容は農林水産省の「ヤミ専従問題」で、調査に当たっていた第三者委員会と同省の特別調査チームが「調査報告書」を石破農相に提出した関連の記事である。私はこの種の調査報告書は必ず「目を皿のように」して読む。
・ 想像していた通りの「内容」で農林水産省の職員で作る「全農林労働組合(全農林)」の「醜さ」と言ったら「言葉もない」。「腐って腐臭が辺り一面」にするほどだ。委員長ら組織トップと地方本部の委員長ら12人は責任を取って「全員が辞任」で「給与相当額の返還」も組合がするそうだが「当たり前」である。「金利をつけて返還せよ」と言いたい。
・ 福田という委員長は「法令順守の観点や国民の(税金という)視点が欠落していた。心よりお詫びしたい」と述べたとあるが平成も21年になって今頃「何を寝とぼけたことを言うか」という感じだ。
・ 2005年「日本中を騒がせた大阪市職労のヤミ専従問題」が引き金となり中央でも数回にわたって調査していたが農水省の調査では「ヤミ専従はなし」との報告であったが「逃げられない」と観念したものだろう。
・ 過去5年間で198人に上るというから酷い話だ。農水省は該当者を減給などの懲戒処分とするし、「見てみぬふり」をしていた直属の上司なども監督責任を問い1000人を超える処分をするとある。
・ 勤務時間中に許可を得ずに「組合活動」をするヤミ専従は法律で禁止されているにもかかわらず未だにあるのだ。仕事もせずに国民の税金から給与が支払われえているのだからこれでは「税金泥棒」と言われても仕方がなかろう。
・ 「調査報告書」の要旨しか報道されていないが、問題はその中身である。「出勤簿に判子だけ押して後は組合の事務所に常駐」「組合の職場集会を勤務時間中に頻繁に開催」というのであるが私が問題にするのは「恐るべき組合の体質」である。
・ なんと「着任初日恐怖の儀式」という見出しの中には恐るべき組合と当局の癒着が大きく記事になっている。「勤務評定を人事に反映しない」と迫るような今日信じられない体質である。
・ 春の異動で管理職が地方の出先事務所に着任したその日、会議室で待っていたのは息子ほど年下の若造が5人ほど雁首揃えて管理職に「お前の考えを言え」と言うそうだ。先輩から教えられたとおりに「組合の皆さんの考えを尊重します」と答えるそうだ。
・ 「対応を間違えると大変な目にあう」と管理職は震え上がって地方に赴くと言う。これは「日本のことかいな」と私は思うのだ。全農林の組合は未だに「民度の低い組合」らしい。確かに1965年に激化した「勤評闘争」では全農林は最も過激な組合で「全国津々浦々で当局側に自殺者」が出たことで有名である。
・ この時の「自席に座るだけで仕事をしないだんまり戦術」は当時名をはせ、結局中央省庁で導入が最も遅れたのは農林水産省であった。管理職も組合と衝突すると「管理能力がない」と烙印が押されるから「なあなあ主義」で「腫れ物に触るような対応」が組合を増長させたのであろう。
・ 新聞の見出しでは「もともと員数外だから居ても居なくても困らない」とあるのには笑ってしまう。要は「人を余らしていた」のである。ところが行財政改革で人がいなくなると「働かない組合幹部を抱える余」がなくなり「表ざた」になってきたのだ。
・ 「着任当日恐怖の儀式」の見出しを見て私は数年前に公立高校に着任した当日のことを昨日のように思い出す。これと全く同じような「歓待」を私も受けたのである。夕方16時過ぎ「組合分会」が大挙して校長室に来たのである。
・ 話の内容は「来週に迫った入学式において国旗の掲揚と国歌の斉唱に我々は反対である。新校長のご存念を承りたい」というものであった。読売の記事にもあったが新管理職を迎えての「組合の力を見せつけるための儀式」みたいなもので新校長ははまずこの洗礼を受けるのである。
・ 組合が全農林と教職員組合との違いだけでやっていることはまったく同じ構図である。今教職員組合には「ヤミ専従」はないと思う。極めて大阪府も厳しい対応をしているし、どの公立学校にもそのような教員を抱えている余力はない筈である。
・ 「私学」においてはどのような実態なのかは知らないが本校では「やみ専従」も居なければ「勤務時間中の組合活動」は有り得ない。正式な許可を出す、すなわち「職務専念義務の免除」も1年を通してないのが実態である。少なくとも農水省のような「組合支配」の構図は今や本校で有り得ない。私は徹底的に闘う。
・ しかし私は思うのである。戦後60年もはるかに過ぎて未だに「組合幹部のこのようなコンプライアンスの欠如」と当局の「馴れ合い主義」が日本のあらゆるところに侵食し、単なる「経済闘争」に終わらず「イデオロギー闘争」や「職場サボタージュ」のウイルスがはびこんできたことを憂えるのである。
・ 全農林も日教組も民主党を支持する「連合」傘下の組合で私は正直この点を心配している。民主党の輿石副代表は有名な山梨県教組出身で公式の場でも「教育に中立は有り得ない」と明言されている方だ。「ゆり戻し」がなければよいと念じざるを得ない。民主党は教員免許の更新性も改めるとマニフェストに書くと言う。とんでもない話だ。
・ 17日の新聞には各紙が「日の丸君が代を巡る訴訟」の横浜地裁の判決を報じていた。神奈川県立学校の教職員135名が入学式や卒業式で「日の丸に向かって起立し君が代を斉唱する義務がないことの確認を求めた訴訟」である。しかし「こういうのを訴訟するか!?」
・ 判決は「起立斉唱命令は思想良心の自由を侵害せず、教職員は起立斉唱の義務を負う」であり、教職員側の訴えを全面的に退けた。また命令に従わない場合は「厳正に対処する」とした教育長の通達も「教育基本法が禁じる不当な支配」には該当しないと判決であるが、組合は「控訴する方針」とか。
・ 未だに学校現場にはこういう輩が徒党を組んで厳正なる式をぶち壊すイデオロギー教員が居るという現実である。「度し難い」現実を直視しておかねばならない。本当に一部の教職員組合員とは一体何者なのか、未だに私は理解できないのである。

2009年7月25日土曜日

7月25日(土)天神祭







・ 「硬式野球大会」が9時からあった。相手は大阪学芸高校である。あらゆる面で「ライバル校」の一つであり、朝から私は「気合」が入っていたのである。結果は「5対0で勝利」。しかし良い試合だった。これで5回戦に進む。気分が良い。

・ そして今日は「天満の天神さん」のお祭りである。京都の祇園祭り、東京の神田祭りと日本3大祭りの一つとして「浪速の夏の風物詩」である。勇壮な陸渡御、華麗な船渡御と伝統神事に彩られ5000発の花火が大川上空に大輪の花を咲かせる。
・ 「天神祭」は「大阪天満宮」が建立された2年後の「天暦5年(951年)」から始まったとされているから「1050年」を軽く超えている。ここまで来るともう「長い伝統」とか言うものではなくて「歴史そのもの」と言うものであろう。
・ 100年を超えれば何事も「文化になる」というからその10倍と言うのは歴史以外に表現の方法がない。今から1000年前に天満宮の横を流れる「大川」から「神鉾」を流し流れ着いた浜に設けた斎場で「禊払い」が行われ、その際に神領民や崇敬者が多くの船を用意して「神様を奉迎」したことが「天神祭の由来」と名誉理事長から教えられたことがある。
・ 名誉理事長とは大阪天満宮宮司で本校の学校法人理事で名誉理事長である寺井種伯氏である。大阪府神社庁長でもある。代々寺井家が宮司を勤め寺井家は必ず名前に「種の字」が入る。
・ 昨日の24日が「宵宮」でテレビでも放映されていたが「鉾流し神事」が行われ、お祭りがスタートするのである。そして夕刻に「催太鼓」が打ち鳴らされて宵宮が終わり今日の「本宮」となる。
・ まず「陸渡御」と言うのがあり約4キロの道のりを3000人近い人々が行列を組んで練り歩くのである。「山車」「神輿」などとともに豪華な時代衣装をまとった大巡行は「栄華を極めた時代の天神祭を髣髴」とさせる。
・ そして祭りのハイライトは夕方6時過ぎから始まった「船渡御」である。陸渡御を終えた集団が天神橋北詰めから順次乗船し、「かがり火」をともした「約100隻の船団」が大川を行き交うのである。
・ 実は知人から切符を3枚頂いて「神鉾講御供船」というのに乗船したのである。後の二人は常日頃お世話になっている事務室の女性のIさんとOさんとした。お聞きするとまだ「船渡御」のお船に乗ったことはないという。ちょうど良い機会と思ったのである。
・ ただ条件は一つ「出来れば浴衣を着て欲しい」と私は言った。自分も浴衣を着るからである。これに対してはお二人とも大賛成でこういう機会でもなければ浴衣など着る機会はないのだろう。
・ ただ女性は準備が大変らしくて今日は朝の10時過ぎには早引けで帰宅して「美容院に行き着付けをしてもらう」という。自分で帯がつけられないと言う。「ウーン」という感じだ。余計なお金を使わせることになって申し訳ないことをした。
・ 2年前には名誉理事長から特別招待を受けて先頭から2船目のお船に乗って「宮司の奥様のそば」でビールを飲みながら花火を見学したものだが、有名な人が多くて気を使って余りビールも飲めなかった。
・ だが今日は一般の御供船だ。「庶民的」で気楽に行けた。まず「ご神霊」を乗せた「御奉輦」「奉安船」、「供奉船」などに続いて協賛団体や市民船といった「奉拝船」など様々な船が行き帰りしてすれ違うたびに「大阪締め」という手打ちの挨拶をする。
・ 「打ちまーしょ。ちょ、ちょん。もうひとつせー。ちょん、ちょん。」といった具合だ。お互いエールを送っているのだろう。最大の盛り上がりは「5000発の奉納花火」である。
・ この天神祭には約100名の本校生徒が輦や神輿などに担ぎ手や付き人として「神社奉仕」で参加している。衣装を替えて出ているからよく分からないが御神霊の乗られる御奉輦を担っているのはすべて本校「ラグビー部」の生徒である。
・ 他の重要な役回りのも本校の生徒がついており、教諭もAグループに3名、Bグループに2名も当てて「浪高総出で奉仕」させて頂いているのも「誇り高い」のである。私は重々事故のないように教員に注意をしたのである。
・ また今年の天神祭には裏話があって23日に40年ぶりに復活した「夜の北新地」陸渡御が行われたがこのときの神輿を「本校の神輿ではどうか」ということで宮司以下「」の役員の方々が学校の神輿を見にみえられたのである。
・ ただ神輿の屋根に「本校の校章」がよく見える形でレリーフされていることからいかにも「ウーン」と言うお顔をされていたがまさか校章を削り取るわけにも行かず結局取りやめになった経緯があった。使ってもらえれば本校のPRになるものをと惜しんだものだった。
・ お連れした女性陣は「キャーキャー」とは行かないが大変喜んで頂いた。大阪に住んでいても100船数で100人乗ったとしても乗船できるのは10000人と言われており、延べ200万人以上の人が出るお祭りの中では「ラッキー」なことなのである。
・ 人生で一度でも船渡御に参加できれば「幸せ」と言うことだと思う。9時前には陸に上がり気持ちよく天神祭を楽しんだ。昼過ぎ突如にわかに掻き曇り、一時は一体どうなるのかと心配したが夕刻には雨も上がり絶好の花火日和となった。
・ 伊勢修養学舎も無事に終わり硬式野球は勝ったし、本当にリラックスできる週末土曜日をこのようにして私はエンジョイしたのである。

2009年7月24日金曜日

7月24日(金)教え子とは


・ 私は新聞が大好きであるが「スポーツ新聞」は読まない。読まないと言うより手にする機会がないだけで別に嫌っているわけではない。何時も行く「床屋さん」では進んで読むようにしている。スポーツ新聞の「幾分過激な表現方法」など勉強になるからである。しかしどうして床屋さんにはスポーツ紙が多いのであろうか。
・ そういうわけで最近その床屋で「本校OBの俳優赤井英和」さんが「50歳になった」と言う記事を目にした。「へー、もうそんなお年か」と言う感じである。万年青年と言った風情なのにと思ったのである。
・ 「浪速のロッキー」として名を馳せ、いまや好感度ナンバーワンの俳優であることは間違いない。私も今まで2回ほどあったが礼儀正しい「挨拶の出来る人」であった。浪速高校時代は本人も言っているように「幾分やんちゃ」な面もあったらしい。
・ 本校に着任した当初は「赤井は私の教え子です」と言う教員の言葉を良く耳にしたが、本当にそうであろうか。興味があった。そういう教員が複数名いたからである。しかし考えてみたら赤井さんをして「私の教え子」と簡単に言えるのであろうか。その辺を少し論考してみたい。
・ 「教科を教えた生徒」がすべて「教え子」だったら生徒にとって自分のことを「教え子」と呼ぶ先生は幼稚園から大学まで何百人になるかも知れない。塾なども入れたら大変な数になるだろうから、これはもう「教え子」とは言わないのではないか。
・ 「アララギ派」の歌人で教職生活の長かった「土屋文明」は「教え子という言い方」を激しく嫌っていたと7月8日の産経新聞に教えられた。土屋文明先生は明治23年群馬県に生まれ一髙から東京帝国大学哲学科を卒業し長野県の諏訪高等女学校、松本高等女学校などの「校長」を勤めた後法政や明治大学で教鞭とりアララギの編集に携わった歌人の第一人者で1986年には「文化勲章」を受章するなど老大家であるが、この先生が「教え子」という言い方を激しく嫌っていたというのも興味深い。
・ 巷間伝えられているところでは「思想運動」に身を投じ若くして「獄死」した伊藤千代子という教え子があり、若い人たちの「ひたむきな生き方」に触れた文明にとって「教え子」と言うのは教師の「尊大な物言い」「高慢な気風」を感じたのかもしれないと記事にはあった。
・ 教え子と言うのはあくまで「教師の側にたった言い方」で「僕はXX先生の教え子です」とは言わない。「誤用」とある。「フーン」。確かに誰からも「教え子」ですと言われても教師の側からすれば「そんな風に教えた覚えはない」などと言われたら「実も蓋もない」からだ。
・ 「仰げば尊し、わが師の恩・・・」。日本では卒業したら「恩師」と呼ぶのが一般的であったがそれは戦前の話で現代で「恩師」と呼ばれるような先生は一体いるのかと厳しい声が聞こえるが、私は「恩師と教え子」の関係で初めて双方の言葉が生きてくると思うのだ。
・ そういう意味から赤井英和さん、「あなたにとって恩師と呼ぶような先生は誰ですか」と聞いてみたい気がする。その人だけが「赤井は私の教え子」と言えるのではないか。
・ 例の「中央大学教授殺害事件」の犯人は「元教え子」だったと新聞やテレビでは「教え子」の連発であったがこれは「おかしい」と思う。恨みを持って残忍な犯行に及んだ犯人を「教え子」と表現するのはおかしい。
・ 新聞記事は「元教え子」と言う表現が間違っていたと書いてはいたが「教え子に元も今もあるまい」。教え子は教え子である。ただ亡くなった教授がこの犯人を教え子だと思っていたとは想像できないしこの犯人も「恩師」と思っていた筈はない。
・ 「 校長たる職位にあるものには教え子は一体どうなるのであろうか」。教科は教えるわけではないから、日常の接触は教師に比べて格段に少ない。生徒からは「校長先生、・・」と呼ばれたりするが彼らは私のことを「恩師」とは思っていないだろう。したがって彼らは校長の「教え子」とはならないのか。
・ まあしかし「大きな意味」で本校を卒業していった生徒は「私の教え子」だと私は思うようにしている。「個人的な思」で深い意味はない。教職員を通じて本校の教育を展開しているのは私であるし「学校教育の一切の責任は校長」にあるからである。
・ 従って私は生徒から恩師と呼ばれる素晴らしい先生の奥にいるから「奥の院恩師」だとも考えることが出来る。同じように教え子は「又教え子」か「間接教え子」となる。まあ、そんなことはどっちでもよい・・・。
・ 言いたいことは、「生徒から恩師と呼ばれる先生になって欲しい」ということである。それが私の願いだ。そういう先生が多くなれば本校の力と名声はまだまだ上がる。そして胸を張って「あれは私の教え子です」と言えるような生徒を沢山作って欲しいのだ。
・ 「恩師と教え子と言う関係」が極めて「希薄」になってきているのではないかと心配している。公立学校は卒業した生徒が学校訪問をしたら「そんな先生、とっくの昔によその学校に転勤したよ」となるだろうが私学は違う。
・ 何時母校に行ってもお世話になった先生はいるのだ。それだけに私は私学の教員と生徒の関係はもっともっと「濃密」なものを期待している。「サラッ」とした関係をまず言うような教師では生徒から「恩師」とは呼ばれないだろう。
・ 「生徒個人」のために「自分の時間を犠牲」にして対応する先生こそが「恩師となりうる資格」を有するというのが私の考えだ。クラス全員を対象に最大公約数的対応しかしない教員は「アッサリ派の教員」でまあ単なる「給料取り教員」であって「教師ましてや恩師とはならない」だろう。
・ 教科指導というより人生の生き方などで「その後を決めた一言」を発した教師が恩師となりうるのではないか。「自分が今あるのはあの時の先生の指導のお陰でした」と言って貰えるのは教師だけである。サラリーマンにはそのようなことは無い。「仰げば尊し、我が師の恩・・・」。「教師冥利」に尽きる言葉だ。

2009年7月22日水曜日

7月22日(水)五十鈴川の禊







「禊」あるいは「禊祓い」とは神道や仏教で自分自身の身に穢れのある時や重大な神事などに従う前にまたは最中に自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めることをいうと物の本に書いてあるのだが、「万葉の昔」から「君により言の繁きを故郷の 明日香の河に禊しにいく」と詠われているように「禊には古い歴史」がある。
・ 「手水」をつかい神社仏閣で清めることも禊の一種で昨夜指導に当たっていただいた神宮司庁のお方は「お前、顔を洗って出直して来い!」というのも禊から出た言葉だと言われた。「なるほど」。
・ 「斎戒沐浴」という言葉もある。斎は酒や肉を絶ち戒は自らの過ちを正し、髪を洗って風呂に入って体を清めるということだが、これと「」との関係はどうなんだろうと考えてしまう。
・ 服装は大体白装束が原則だが男子は「ふんどし」で行うのが普通だという。本校は神道科の先生だけがふんどしで他の教員や生徒は「水泳パンツ」と決められている。私はふんどしを付けたいのだが「まだ早い」と言ったところか。
・ 神職になる女性も禊をするらしいが本校の女生徒にはさせていない。更衣の場所とか様々な課題がまだ多いからである。第一体が冷えたりしたら大変だ。最もあわびを捕ったりする海女さんは女性だが。
・ 昨夜夕食後神宮の指導者、この人を「道彦」というのだが夜9時30分過ぎまで指導をして頂いたのである。要は事前訓練である。私もフルアテンドしたが今年の1年生は「恥ずかしがらず、元気一杯」取り組んでくれていたのが嬉しかった。
・ 朝は5時30分起床で6時には神宮会館を出発した。全員が浪速高校の校章の入った「日本てぬぐい」を鉢巻にして頭に巻く。これを「かんむり」と言って代用するのだが禊の済んだ後「皇大神宮」即ち「内宮」にお参りして会館に戻るまでは外せないのである。ずっと「鉢巻をしっ放しで歩く」のである。
・ 禊の場所は「五十鈴川」である。伊勢市南部に源があり北流して伊勢市街を流れ伊勢湾に注ぐ川であるが神宮にとっては「特別な川」である。「倭姫命(やまとひめのみこと)」が御裳のすその汚れを濯いだという伝説があり、「御裳濯川(みもすそがわ)」の異名を持つ。
・ 倭姫命は天照大神の御教えを受けて約2000年前に五十鈴川の上流である現在の地に「内宮を創建されたお方」で第11代垂仁天皇の皇女である。専門的になるが伊勢神宮を語るときに絶対に外せないお方である。したがって内宮の「別宮」として格が高いのである。
・ 伊勢神宮の定期機関紙のタイトルは「みもすそ」というからこの古事から来ているのだろう。私は伊勢神宮の「評議員」を委嘱されており、様々な企画や刊行物が送られてくるので、それらを読むだけで知識が増えて、大変勉強になる。
・ この五十鈴川に掛かる橋が「宇治橋」で今「式年遷宮」で橋の付け替え工事が行われており、仮り橋を使って内宮に赴いた。ネットで五十鈴川を検索すると本校の「伊勢修養学舎」が出ており、「この川で禊する浪速高等学校」として紹介されているから、もう本校の禊は有名な話なのである。
・ 昨夜来の雨で「水かさ」を気にしたがそれほどでもなかった。しかし一応用心して川の中ほどには行かせず川岸に近いところで「禊祓え」の正式な神事を滞りなく済ますことが出来た。
・ 川に入る前の準備が「禊次第」として30分以上かけて行われる。私はこれは「ウォームアップ」と思っている。まあ相撲でいうところの「仕切の時間」かも知れない。大きく四つに分かれており「鳥船行事」「雄健(おたけび)行事」「雄詰(おころび)行事」「気吹(いぶき)行事」となっている。「読み方も難しい」。
・ その後「身禊」となり終われば又陸の上で同じ行事が行われる。「クールダウン」だと考えてもよい。その後着装して生徒達は一言も発せず宇治橋を渡って「内宮に参拝」するのだが縦に4列で頭にはかんむりを付けて黙々と整列して行進する様子は「迫力」がある。その先頭に私は立って生徒を引率するのである。
・ 禊の後の生徒の顔は何か「締まった」感じがしてあれほどざわざわがやがや私語などしていたが誰も黙々と姿勢正しく内宮の玉砂利の上を「ギシャギシャ」と音をさせながら広い境内を一列になって我々は歩いたのである。

・ 昨日雨で順延になった本校と高津との野球の試合は電話があって「7対1で浪速高校が勝ちをおさめた」と報告があった。良かったー!」。

2009年7月21日火曜日

7月21日(火)伊勢修養学舎







・ 予定より15分遅れで学校をバスは出発した。小雨混じりの中であった。「伊勢に7台」、2年生の2クラスの多聞尚学館行きに2台で合計大型バスが9台も正門前に並ぶとそれは「壮観」である。
・ 伊勢行きは浪速高校1年生第1班の269名である。付き添い教員は私を入れて20名である。今日から2泊3日の学舎が始まる。「56年も続いている本校最重要な学校行事」である。私も3回目となる。これが済まないと気が落ち着かないのである。
・ 伊勢神宮は親しんで「お伊勢さま」「大神宮様」「伊勢神宮」と呼ばれているが正しくはただ「神宮」というのが正式の称号である。校長室の「扁額」は神宮大宮司徳川宗武大宮司の書であるがそこにも確かに「神宮」としか書いていない。
・ 役職も「大宮司」とあるのは伊勢神宮だけ許されるもので普通は「宮司」である。神宮にはその他小宮司というのもあり、とにかく一般の神社とは完全に異なる職位である。言ってみれば伊勢神宮は全国の神社の頂点に立つ「別格」なのである。
・ バスは「西名阪」を走る。雨は徐々にきつくなって、私は明日朝の「」を心配した。五十鈴川の水量が多くなると危険だからその場合は翌々日となる。そのために二日間の禊としているのはその為である。
・ 伊勢に向かう街道はいくつもあり、それぞれが「伊勢街道」であるが奈良の宇陀を抜ける街道が「伊勢本街道」と言われている。今日の我々は「伊賀街道」と言われるもので伊賀を抜けて松阪そして「伊勢参宮街道」に入って「伊勢崇敬会」事務局のある「神宮会館」に向かった。到着したのは予定通り12時前である。
・ 生徒は持参の「お弁当」を会館内の講堂で取った後、13時10分同じバスに乗って「外宮」に向かう。正式に「手水舎」で口を漱ぐ。1学期に「神道科の授業」で教えているから「飲み込み」は早い。こういう「所作」を教えていることは彼らの「その後の人生」で必ず役に立つ。
・ 外宮、「豊受大神宮」正宮は第21代雄略天皇の時代にご鎮座されたというからこの地でもう1500年を過ぎている。「食べ物の神さま」であり、「産業の神さま」である。本校は「御垣内」という境内の中での参拝が特別に許されている。私と教職員代表、生徒代表だ。
・ その後は「猿田彦神社」に参る。この神社は「みちひらきの神様」として有名である。ご祭神は「猿田彦大神」をお祭りし、何と何と大神の子孫といわれる「宇治土公(うじとこ)家」が伊勢の神宮創建に尽力されてから今日まで神宮の奉護に当たってこられ当代の宮司は77代目と言われるから想像を絶する話だ。徳川でも15代で終わったのだから凄い話なのである。
・ 何か「神話の世界」が現実の世界とダブって感じるようになるから不思議だ。宮司は昨年もご高話を生徒にして頂いた。何時もご本殿お社の中に招き入れられ歓迎される。有り難いことである。
・ 「国の初めの導きの神さま」で、「聖地を開き護る神さま」であるが「建設の神さま」としても良く知られている。地鎮祭や棟上祭には猿田彦大神の「清めのお砂」や「清めの神塩」を以って清めることは大変良く知られている。
・ 雨はぱらぱらきたり止んだりであったが3時過ぎに神宮会館に戻り「開講式」となる。「神宮司庁」から参事が来てくれて生徒へ激励の言葉を頂いた。その後「校長講話」となる。時間は50分で「校長の授業」である。
・ レジュメを用意してしっかりと話をした。「今を生きる」として「時間というものの大切さ」を訴えたものだが生徒は真剣に聞いてくれた。その後生徒は制服から運動服に着替え、風呂に入ったりして夕食までの時間を自由時間として過ごす。
・ 夕食後はこれで終わりと言うわけにはいかない。19時40分から「男子は明日の禊の事前指導」があり、神宮から指導者が来て頂ける。又女子は「礼儀作法と着付けの指導」だ。指導に当たってくれるのは大阪府の女性神職のお方5人がこの間大阪から出張して指導にあたってくれている。

2009年7月20日月曜日

7月20日(月)民主党マニフェスト




・ 朝日新聞の「スクープ」か、はたまた民主党からの「朝日だけへのリーク」か分からないが今朝の朝日の1面のトップ記事は「高校授業料の無償化」を持ってきている。他紙を入念にチェックしたがどこもそれらしき記事はなかった。
・ 記事内容そのものは前から民主党が言っていたものだが今回はそれをより具体化している。それにしても明日「衆議院は解散」し、8月30日は「総選挙」というこのタイミングにこの種の記事をトップ中のトップに持ってくる「朝日の編集方針」はどこにあるのだろう。そこが不思議だ。
・ 「全国の国公立高等学校の保護者に12万円を支給する」というもので実質授業料相当額であり、「授業料の無償化」である。「私立にも同額を支給する」と言うもので平均年収が500万年以下では24万円というからもし「これが実現したら」すごいことになる。
・ 前から民主党は教育問題を具体的に提案していたが15日の「民主党の明日の内閣」で正式に総選挙の「マニフェスト(政権公約」に盛り込むことを決めたもので4800億円程度の追加予算が必要であるがその財源めどは「無駄の排除」から捻出するとしている。これだけだからまだ安心は出来ない。
・ 民主党は「高速道路の無料化」「ガソリン税の暫定税率撤廃」とか様々な「目玉政策」を打ち出しているがまだ「財源の出所」については明らかにしていない、出来ないのであろうが「提案が具体的でスピード感」がある。ここが自民党と根本的に違う。財源などどうにでもなるものだ。
・ 教育に関して言えば「教員養成課程」は6年に延長、「教育実習」も今の2ないし3週間を1年に延長するとか、また公立の場合、「学校理事会制度」という恐らく学校評価システムに相当する機関の立ち上げもマニフェストにはある。
・ そして最終的には現在の対GNPで3.8%の教育への公的財源支出比率を他の先進国並みに「GNP5%にまで持ち上げる」と言うからこれらが実現すると「日本の教育は変わる」ことは間違いない。
・ ただ財源は軽く10兆円を超えそうだからこれをどうするかだが、そう簡単に行く話しでもあるまい。私は「なるようになる」と考えている。今はこの「意気込み」が大切だ。しかしどうして民主党からこのような提案が出てくるのか、自民党は何をしているのか。また朝日新聞だけが1面トップに掲載し他の新聞は何も書いていないのか。そこが私の気になるところである。
・ 良く知られているように民主党参議院の議員会長は輿石氏という人で名うての「日教組出身議員」である。従来から「教育に政治的中立はありえない」とはばからず公言する山梨教祖出身の闘士である。
・ 旧社会党系、旧民社党系と左派の一大勢力を抱え、連合参加の日教組や自治労など「労働組合の全面的支援を受ける民主党」が「正しいこと」をやる限りは国民は付いていくであろうが、現実に政権を担うことになったとき「財源確保」しながら、「左から右までの寄せ集まり部隊」で「ぶれず」にやっていけるのであろうか。
・ 目も当てられない「自民党の凋落」と「民主党への危うさ」を感じながら明日は衆議院が解散される。私立学校の教職員は「目を凝らして」各政党の公約を見なければならない。「凝視」だ。
・ しかし本当に「歴史の転換期」に生きていることを実感する。そういう時代に「現役で職を持ちながら」社会の働く一員として存在していることの「幸せ」を感じている。本校の教職員は「政権の行方」と「教育制度の転換」をじっくりと観察していかねばなるまい。

・ テレビを見ていたら例の「くいだおれ太郎」という人形が「道頓堀」に帰ってきたという。驚きだ。ようやく居なくなったと思ったらまた「舞い戻った」という。今度は「くいだおれ次郎」という弟を連れてだ。また「ミナミ」が暑苦しくなる。
・ 散歩コースなので夕方立ち寄ってみたが、人だかりで大変だった。「携帯で写真を撮るだけ」で誰も新しいレストランに入っている人などいなかった。あの人形の顔を見て「可愛いと思ひますか?!」何か独特の顔をしている。頼むから「戻ってくるな、くいだおれ太郎」。
・ テレビではなんと橋下知事と平松市長が並んで「太郎の再デビュー」に立ち会って出ていたが何が歓迎の言葉だ。ただ「自公の推薦で当選した知事と民主の推薦で当選した市長の勢いの差」がそれぞれのお顔に出ていたな。太郎は太郎でも「橋下知事は麻生太郎で平松市長はくいだおれ太郎」ということになるのか。
・ 平松市長は何か元気で、知事は首長連合も上手く行かなかったし、いま一つ勢いが無かったように見えた。「民主党推薦平松時代が来つつある」のかなと私はテレビの二人の顔をみて感じたのである。しかしあの平松市長のお顔はハンサムではあるが私の好きなタイプではない。知事のお顔の方が好きだね。市長、どこかくいだおれ太郎に似ていないか。

2009年7月19日日曜日

7月19日(日)その2:宮崎県東国原知事を語る


・ 宮崎県知事「東国原英夫知事に逆風」が吹いている。過日知事は宮崎県庁で緊急記者会見を行い、「国政転出を諦めた」ことを正式に発表した。「衆院選の出馬断念」である。注目して見ていたが「まあ自業自得」でやむなしと言ったところだ。
・ 新聞各紙が報道していたが「もはや興味に値しない」という感じで「扱い」も小さい。確かに「自民党内の争い」の方が面白いことは分かるが、それにしても遂先ほどまでは「知事べったり」の論調がここまで変わるとは「急転直下」というのはこういうのを言うのか。
・ 特に毎日新聞はその中でも扱いは大きく、論調は「厳しい」。しかし私はその中に感じるものとして何か「揶揄した」記事のようにまとめている気がする。例えば過日は大見出しが「そのまんま宮崎に」とあるくらいだから。
・ 「そのまんま劇場」は後味の悪さを残して終幕とか、東国原劇場の「株価」は暴落とか書いている中で唯一大阪府の橋下知事だけが「賛否はあるけどメリット大きかった」とエールを贈っている。私もそのように思う。
・ この間冷静に“劇場”を見続けていた私の論評を書けばこうなる。知事は「大きな失敗を一つ犯した」のではないか。それは「自民党総裁候補とする」ようにと条件をつけたことである。これさえなかったら全く逆の現象が起きていたのではないかと思う。
・ 1昨日本校に制服を納めている会社の部長さんが見えられ、たまたま政治の話題になったのだがこの人も「自民党総裁とは・・・、少し調子に乗りすぎている」みたいな言い方であった。殆どの国民もあの知事の発した「総裁云々のフレーズ」に「違和感」を覚えたに違いない。
・ 橋下知事に比べて非常に「温厚な物言い」をする人で私はかねてから「気配り心配り」できる人物と思っていたが、やはり一挙に「自民党総裁」というのは「遂出た言葉か」あらかじめ「用意していた言葉」か、分からないが最大の失敗になった。
・ 日本国民は基本的に「保守的」であり、保守の土壌の上に時々「革新的」「変り種」「異分子」等をまぶして食べる「ふりかけご飯族」であり、宮崎県知事であれば「面白いし応援する」がそれが中央の総理総裁の可能性にまで言及すると「眉をしかめる」国民なのである。「ちょっと待って」である。ここを知事は読み間違えた。
・ 「知事では限界ある。国政に出て中央から宮崎を更に高める」との一本で良かったのに余計なことを言ったばかりに「自民党を揺るがせ、都議選の惨敗をもたらした全責任」まで背負い込むこととなった。今度ばかりは作戦が「稚拙」であった。
・ 東国原知事や橋下知事が果たした「地方分権の動き」は極めて大きいものがあった。「この二人の存在と力」がなかったらここまではいかない。ここは我々は認めなければならない。
・ しかし私は日本国民にはその心情として未だに「お笑い芸人を馬鹿にした心象風景」があるのではないかと見ている。「俳優」となると一目置いた感じなのに「芸人」となると少し「下に見る」性癖にとらわれていると私は思う。
・ 東京都の石原知事は「芸人風情に古賀(自民党選対委員長)も振り回されて大恥かいた」とか言っていたし、例の自民党の元タレントで弁護士の何とか言う議員も「ああいうのに頼みに行くから都議選は負けた」とか言っている。明らかに「職業意識に差別感」がまだ残っているのでないか。
・ 確かに「そのまんま東」時代から知事はトラブル歴史には名を刻んでいる。「フライデー襲撃事件」「淫行事件」等があったが罪は法的に償い、選挙で圧倒的に支持されて選ばれた人であるが、少なくとも「県民の負託」に応えるためには「一期4年」はしなければならなかった。
・ 師匠であるビートたけしさんは「謝って宮崎に帰れ」と諭したそうだが「覆水盆に帰らず」だ。各紙とも「影響力の低下は避けられず」と書いているが確かに相当な「逆風」であるが「捲土重来」を期して、ここは「隠忍自重」だ。
・ 私は彼が過日漏らした一言に注目している。「議会で予算が通ったら後は知事の仕事はない。プー太郎で暮らす」と言ったとあるが「本音」が出ていると思う。実際のところ「知事の仕事など基本的にはない」のだ。
・ 「行政組織」とはそういうものだ。「予算編成とその議会通過」を図れば後は行政の仕事は流れていく。そのために「役人」がいるのだ。東国原知事も橋下知事も「テレビに頻繁に出演」でき、「東京に出張として出没」できるのは庁舎に仕事がないからだ。
・ 「宮崎をどげんかせんないかん」と叫び「宮崎のセールスマン」よろしく「宮崎産マンゴー」「宮崎地鶏」を売って歩いているが、あれは「時間のもてあまし」がなせる業なのである。
・ 小さい頃から「夢は政治家とお笑い芸人になること」と言っていた知事は県立都城泉ヶ丘高校普通科から現役で専修大学経済学部を卒業、更に2000年には早稲田の第二文学部を卒業、加えて早稲田の政経学部の政治学科に入学して2年で中退し宮崎に戻るなど「筋金入り」の経歴だし政治家は全くの素人ではないのだ。お笑い芸人と言って馬鹿にしてはいけない。
・ 東国原知事は2年で「県政の限界が見えた」のである。同じように橋本知事も「府政の限界」が見えたから今大声で「首長連合」とか言って「東京に向かって分権」を叫んでいるのも私に言わせれば全く同じ構図なのである。
・ 二人の違いは「行政規模の違い」であり、宮崎県民には悪いが宮崎は「大田舎」なのである。「やる気まんまんの知事」を満足させる仕事がないのである。大阪はまだ規模が大きいだけに橋下知事は「私学助成の削減」とか良い悪いは別として「仕事が多い」のである。
・ しかし今私は今橋下知事にも一種の「危うさ」を感じているのである。「東国原知事の二の舞」になってはならない。中央で二人が必要とする時代はそのうち向こうからやってくる。一言で言えば「調子に乗らない」ということではないか。日本は「老人社会」であり、調子に乗ると「老人の逆襲」がある。
・ 有り余る自分の能力を時には仕事の対象に「合わせる努力」も必要である。余ったエネルギーを外へ向かって発散していくと思わぬ「落とし穴」に落ち込むのである。実はこのことは本校を「孤軍奮闘」して経営し運営している「私にも当て嵌まる言葉として自戒」しているのである。管理職と多くの教職員が頑張ってくれているからこその話であり、「謙虚」に「慎重」に「調子に乗ってはいけない」のである。

7月19日(日)その1:浪速と高津が対戦


・ 昨日のブログで今行われている全国高校野球選手権(甲子園)の大阪府大会のところで「ちょっとした話」があるので今日のブログに書こうと日記にとどめた。「ちょっとした話とは何か」ということであるが他人にとってはまったく関係ない話であるが、私にとっては本当に「ちょっとした話」なのである。ちょっと以上かも知れない。
・ 実は来週21日に「本校と大阪府立高津高校が3回戦で対」するのである。私は大阪府最初の民間人校長として「府立高津高校の校長を4年間」務めた。色々あって1年を残して59歳で高津の校長を自ら辞め、浪速に奉職した。しかし高津丸々4年と言うのは「短い期間」ではない。
・ 大体府立高校の校長は普通3年間というのが通り相場であった。今は少し長くなっているみたいだが、現実に私の後の高津の校長はすでに3人目の校長だから平均1年で代わっている計算になる。色々理由はあるのだがとにかく計算では平均1年で交替だ。
・ ところで浪速と高津の対戦は「実は想定」していたのである。「組み合わせ」が決まったときに3回戦では高津と三国丘の勝者が本校と対戦するようになっていることは本校の野球部長に告げられて私は知っていた。その部長はわざわざ「先生、高津との対戦になりますよ」と神妙な顔をして言っていた。その顔がさも「真剣な感」で有ったので私は「へー」と苦笑いをしてしまった。
・ 本校が昨日市立工芸高校と試合をする前の試合が高津、三国丘の対戦であり、最後の方を少し観戦できたのである。高津は3塁側であったがその次の本校の試合は1塁側であったからそちらで「息詰まる投手戦」を堪能した。
・ 大変良い試合だった。今朝の新聞にも大きく取り上げられていた。9回の表に高津が2点を入れて結局2対0で高津の勝ちなった瞬間「ああ、これで浪速と高津の試合になる」と思った。正直「なんとも複雑というか様々な思い」がしたものだ。
・ 私は「高津との因縁」「高津との縁(えにし)」を感じたのである。高津、三国との対戦で「どちらを応援したか」って。当たり前で「高津」である。高津はもともと野球は強くて案外知られていないのだが「甲子園出場組」である。もう何十年も前であるが大阪代表で倉敷工業と対戦して破れている。
・ 勿論三国も同じ学区という関係だし、現在の三国丘の校長も私の親しい友人である。私が高津のときに同じ5学区の八尾北高校の校長だった関係で最もよく飲んだ仲間であった。結局進学校同士の決戦は高津が少ないチャンスをものにして勝利したのである。「ピッチャーが大変良」。
・ 本校は「野球部員が120名以上もいる甲子園出場組」でそれも2回も出ている。昨年「野球特待生制度」が社会問題となったときに「本校は私学でも特待生制度をしていない野球の強い学校」として大きく取り上げられたのである。
・ 「文武両道」の学校であり、その点では特待生制度のない公立高校並みで一応野球の強豪と言われているのは生徒の努力と指導者に恵まれてきたからである。プロの選手も出している。「オリックスの大引選手は浪高から法政のキャプテン」をしてドラフトで入った選手で実家は住吉区にある由緒ある神社の息子さんである。
・ 高津、三国丘戦が終わったとき三国丘の教員が私を見つけ、「先生、高津とですね」と言ってきた。私を知っている教員は必ずそのように思うのであろう。他人から見ても「木村の高津と木村の浪速の試合」の構図は興味を引くのであろう。
・ 本校の方はもう強くてこの日の試合はもう一方的、11対0の7回コールド勝ちとなったがこの日は「エース」を投入していない。1回戦も7回8対0でコールド勝ちとしたが、私の思いは今一つ昨年に比べ「長打」が出ないのが気になる。全般に今年は投手が良いのか。
・ 観戦していた本校の保健体育部長も「先生、次は高津ですよ」とわざわざ耳打ちにきた。しかし今の高津の選手はもはや「私が入学を許可」した生徒ではない。従って保護者もお顔を知らない人ばっかりである。高津のPTAには大変お世話になったが、これも「時間経過の必然性」と言うものだろう。もう「過去の話」となった。
・ 浪速と高津とどちらを応援するか、そんな「愚問」をする人も居ないだろうが「高津を徹底的に押さえこんで勝って欲しい」。そして高津にも「良い試合」をして欲しいと念願するばかりだ。
・ 本当にこのような例はあまり何ではないかと思うが別の珍しいことではないのだろう。一人の校長の前任校と現任校が対戦するなんて大阪には多いのかも知れないが私にしては「ちょっとした話」なのである。「浪速も高津も大阪を意味する”「古名”」である。「極めて誇り高い名前」である。私はその両方の校長をもう通算7年も継続している。
・ 残念だが21日、私は本校最重要な学校行事である「伊勢修養学舎」が伊勢にて行われているので、そちらをスキップするわけにはいかない。高校1年生500人への「校長講和」と「」が待っているからだ。。
・ 球場を後にして駐車場に戻る途中で一人の若者が後ろから追いかけてきた。「木村校長先生でしょ1?私、高津野球部のキャプテンをしてたGです。今青山学院4年で住友商事の関連会社に内定を貰いました。確か先生は住友金属でしたよね・・・」と懐かしそうに話しかけて来たのだ。
・ 私は見覚えのあるその顔に高津時代の素晴らしい生徒を強烈に思い出したのである。自由な校風の中でもしっかりとした生徒ばかりだった。生徒が優秀だっただけにそれに甘えて何もしない高津の教員は当時よく知られた話で「高津改革」のために私は派遣されたのである。
・ 「血みどろの戦いの日々」であった。「あれからもう8年」となる。縁が切れてからも4年だ。それでも生徒は私のことをこのようにして覚えてくれているのだ。「そうか住商か、頑張れよ」と声を掛けて私は野球場を後にして「多聞尚学館」に向かったのである。

2009年7月18日土曜日

7月18日(土)1学期終業式




・ 今日は「1学期の終業式」であった。朝から「空模様」が悪く、8時30分過ぎには「パラパラ」と来たのと極めて「蒸し暑い」天気であったから、式を中庭でやろうか教室でやろうか悩んだが、「新型インフル問題」もあり、「集合より分散」の方が良いと考え、結局生徒はそれぞれの「教室」で私は「校内放送」を使った式となった。
・ 本校は式に先立って学院神社に「神前奉告」というのを実施する。1学期大きなトラブルも無く生徒が無事に終えることができた「感謝の意」を捧げ、「夏休みの安全を祈願」するのである。神社前には私と「中学生徒会長と高校自治会長」が並んで参拝する。遠く教室のあちこちから「拍手」の音が聞こえるのも悪くは無い。
・ 1学期が終わった。「ほっと一安心」である。明日から学校はないのかと言ったらそうではなくてまったく全く普通の日のように学校はあるのである。これが「今日の学校の実態」である。明日から学校の門は閉ざされて誰も居なくなるという光景ではない。
・ しかし一応の「節目」であり、生徒や教職員の顔からは何か「ホッとしたゆとり」みたいなものを私は感じるのである。ところで夏休みは「生徒の夏休み」であって「教職員の夏休み」ではないのであるが、世間の人の中には今だに誤解があって「学校の先生は良いですね。長い夏休みがあって」などという人がいる。とんでもない間違いである。
・ 実際のところ学校は明日から「講習」や「多聞の学習合宿」「部活動」「インターハイ」などが「目白押し」で「教員は休まる暇がないのが実態」である。特に今年は5月に「新型インフルエンザ」で「臨時休校」が府内すべての公立私立学校であった分、その欠落した「授業のこま数」を取り戻さないといけないから、生徒の夏休みも当然短くなる。
・ またお盆休みが空けたら大体どの学校も「授業が始まる」のが一般的となってきたから正味の夏休み期間はお盆前後ということになる。大体高温多湿の日本で7月8月の狭い教室での授業は過酷ということで夏休みは始まったものだろが今や「教室にはクーラーが完備」されており昔とは環境が大きく変わってきているのも夏休みの変質につながっている。
・ しかしそうは言っても「束縛」から離れた「何か自由な空気」というものが時には大切であり、私は「夏休みというシステム」を評価している。夏休みをゆとりを持って過ごし「2学期に備える」。この「リズム」が良いのだ。だから本校は「2学期制」にはしなかったのである。四季に富む日本の学校には「3学期制」が良いと確信しているのだ。「区切り」「節目」という考え方の重要性が大変良く分かる。

・ 新型インフルで延期していた「高校2年生の修学旅行」もほぼ「形」が出来てきた。本日ご心配をおかけした保護者に私からの印刷物を生徒に託したが、来年の3月1日出発で「行き先を国内3箇所」として再編した。
・ 「日本列島」を北と中央と南に分けた。すなわち北は北海道の「北の大地 ふらの」、中央は東京の「首都 TOKYO」南は沖縄の「南の神秘 石垣」である。「わくわく」してくる。素晴らしい内容となった。
・ 5月終わりに「中止を決定」し来年3月1日出発であるから9ヶ月間で600名を超える生徒を同じ乗り物、ホテル手配となると正直なところ大変だったが2年生の学年主任が頑張ってまとめてくれた。「良い仕事」をしてくれた。
・ 過日生徒のアンケートをとったらなんと北海道が243名、東京が200名、沖縄が165名と報告を受けた。私の予想は「東京集中」かと思っていたのだが依然として北海道人気は強いものがある。スキー・スノボの講習などがあるからかも知れない。
・ いずれにしても今回のことでは「追加の旅行代金」を保護者から頂くことはしないと決めている。「旅行の精算」はすべて終わったあとになるが保護者には2学期中に「保護者説明会」を開いて詳しくご説明するつもりである。

・ 「インターハイ出場の空手道部、弓道部、ボクシング部」、「近畿大会出場の剣道部」、そして「全国ペンフレンド大会」に出場する生徒たちに校長室で「お祝い金」と「激励金」を渡し、本日の終業式で「全校での激励出発式」をした。
・ 正門の後ろの校舎の壁には「大きな垂れ幕」がぶら下がっている。どの学校も「名誉」としてするのが一般的なスタイルであるが本校も同じように実施している。これがあるのとないのでは相当感覚が違うのである。言ってみれば「求心力の垂れ幕」とでも言えばよいか。

・ 10時30分職員会議、私から教職員に対して1学期の「慰労と感謝の言葉」を述べた。海外修学旅行が新型で中止となった他は大きな問題もなく「すべてがうまく回転」しているのは「教職員の働き」のおかげであり、本校は今「極めて極めて良い雰囲気」の状態にある。これを持続しなければならない。

・ 13時20分プレーボールの高校野球大阪大会の応援に出かける。2回戦だ。今日の対戦相手は「工芸高校」であった。11対0で7回コールド勝ちとなったが「ちょっとした」があるので明日のブログにでも書こうと思う。

・ 帰ってすぐ「多聞尚学館」に向かう。夏休みと言っても早速の「週末スペシャル」特別講座である。今回は2クラスで「英語の話法」と国語は「古典の敬語」の学習だ。単元集中である。終業式のその日に生徒と教職員が喜んで多聞に行ってくれるのが嬉しい。
・ 今日は面白い試みで「北部の女子高から12名の生徒が特別参加」である。本校の生徒70名との「合同学習合宿」である。どういう結果になるのか大変興味がある。私は野球の応援から帰ってすぐ多聞に行き激励をしてきたのである。土曜日と言っても忙しく帰宅は7時30分となったが私も何か「ホッ」としているのが分かる。明日以降久しぶりの2連休となった。その後は「伊勢修養学舎」で「伊勢神宮」である。

2009年7月16日木曜日

7月16日(木)新型インフルエンザ感染者発生


・ 本校は「AEDを5台」も有している。うち一台は「多聞尚学館」に置いてある。AEDは「自動対外除細動器」と訳するらしいが、何のことかよく分からない。要はポンプの役目をしている心臓が痙攣を起こして収縮と膨張をせずに微細動を起こしているときに電気ショックを与えて再生を図るものらしい。(?)
・ 開発した当初は高価なものだったらしいが今ではコストダウンが進み、一台30万円程度で手に入るからそのうちに「家庭でも一台」の時代が来るかも知れない。ところが案外「使い方」を知らないのである。私などもまったく知らない。
・ そこで保健体育部長が外部の講師を手配してPTAも含めた「講習会」を13日に実施してくれたのである。私はちょうど硬式野球の大会が南港球場であったらそちらに行ったのだが、本日あることで保護者の方からお電話があり、「ああいう企画は大変良いですね」と言ってくださったので喜んでいたのである。

・ まさに「喜んでいるのも束の間」だった。「何とか終業式まで何もありませんように」と幸運を祈っていたが遂に「新型インフルエンザ感染」の生徒が一名発生した。5月の府内の騒動以降、この問題は落ち着いていたのだが、その後「大阪南部地域」でまた「流行の兆し」があり、我々は心配していたのであるが遂に「捕まってしまった」。
・ 特に岸和田、貝塚、熊取あたりの学校では「臨時休校」が相次いでおり、本校の生徒の居住圏が同じなので我々は「危ない、危ない」と心配をしていたのであるが、「本校で初めて新型インフルエンザ感染の生徒」が出ることになってしまったのである。
・ 先の騒動では結局「高校2年生の修学旅行が延期」となり、旅行会社への「キャンセル料の支払い」など「踏んだり蹴ったり」であった。とにかく正直に言えば「期末試験が終わり、18日の終業式まで何とか無事に」と祈願していたのだが残念だ。後二日で終業式となるのに。
・ 「岸和田市在住の高校1年生」が一名13日以降学校を休んでおり心配した学校は「保健所で正式な検査」をお願いしていた結果が昨日判明したのである。結局「新型インフルエンザ」と判定された。
・ その後昨日になって同じクラスで3名の生徒が一般病院で「季節型」と判断され、保険所で正式に確認するよう保護者にお願いをしていたのである。内規では「新型インフルがクラスで2名発生すれば学級閉鎖」と決めてはいたが季節型というのも「疑わしい」と考えていた。保健体育部長が学校医に連絡したら「新型と考えてください」と言われたそうだ。
・ しかし困った問題で今のところ保健所か指定の病院しか「新型インフルかどうかの判断」は出来ない訳で保険所も府内の学校の一人ひとりのウイルス検査など出来ないといわれるのも当然理解できる話だ。
・ 現在の「休校判断基準は新型かどうか」であり学校長としては簡単に「休校」するわけにはいなかいし、同時に健康な生徒の健康も守らなければならない。正直「困ったな」と思っていたのである。最も通常のインフルでも同じことであるが。
・ そのように考えていたら今朝ほど登校して来た生徒が昼前に4名も「体の不調」を訴えて保健室に行ったのである。確かに「発熱状態」にあることが分かり、私は副校長、教頭、保健体育部長、養護教諭、担任の先生と急遽打ち合わせをして、「感染拡大を防止」するため、この「クラスの学級閉鎖」を決めた。
・ 期間は7月20日までである。学校は18日が終業式で一段落するがこのクラスの生徒は「登校禁止」としたわけである。学校は休みとなってもクラブ活動や講習、など生徒は学校に出入りするので一応5日間のクラス閉鎖としたのである。
・ 時刻は4限の終わる10分前の12時30分であった。担任は走ってホームルームに駆け出していった。早速「生徒を帰宅」させねばならないからである。保健室の4名は保護者に連絡して「迎えにきてもらう手筈」を整え、これらの経緯を大阪府の私学課に報告するよう副校長に指示した。
・ そうこうしていたら15時頃に2年生のクラスで休んでいた生徒の保護者から「新型でした」と連絡が入ったという。第2号である。この生徒も岸和田在住である。「ますます感染拡大を思わざるを得ない状態」という感じになってきたのである。
・ 15時45分に「臨時職員会議」を開き、教職員への状況説明と各クラスの状況把握を今まで以上に「念入り」にするよう指示をしたのである。もしこれ以上バラバラと新型あるいは季節型いずれでも感染者や発熱者が大量に発生すれば「今後の対応方針」を決めておかねばならないからである。
・ 「あと二日で夏休み」に入る。その後は3連休となっているし、この間「家庭で養生」してくれれば良い。我々はまだ運がついている。もしこれが「期末試験」の前だったら「本当に大変だった」が試験は無事終わって明日は「成績判定会議」である。
・ 21日からは「伊勢修養学舎」だ。1年生500人が行くことになっている。一刻も早い生徒の回復とこれ以上の広がりのないことを祈願するばかりである。今日はいささか「参った、参った」という感じだ。「うちが何でやねん!」という気持ちであるがこればかりは仕方が無い。我々には手の打ちようがないのだ。

2009年7月15日水曜日

7月15日(水)歩く広告塔になれ




・ 7月11日に「22年度入学生募集に向けた第一回目の中学校入試説明会」があった。この「重要な学校行事」というか「経営活動」の「反響と分析」を私なりにしてみよう。「こういう作業が大切」なのである。
・ 従来の教職員はこういうものは「学校行事」と捉えているだけであるが、私は違う。これは極めて重要な「経営行動」なのである。「経営戦略」に裏づけされた日々の積み重ねの「集約」が7月11日に表れるのである。「何名の保護者が来校して頂けるのか」その一点に「学校のすべて」が現れるのである。
・ これらは入試広報室の仕事だけではない。明確に言えばすべての本校の関係者である、教職員はもとより「現役の生徒」も含まれる。「在校生の姿は大きな影響」を与える。その保護者は「尚更」である。
・ 在校生の保護者が「浪速は良いわよ、素晴らしい。大満足!」とでも言って頂けたら、その声は入試広報室長の声なんかの数倍も効果は大きい。卒業生もその保護者もだ。すべてが「連続し関係している」のである。
・ 13日月曜日の朝一番に入試広報室長と副室長を部屋に呼び、まとまった「保護者アンケートの結果」について詳細報告を受けた。そしてその場で「今後の作戦」をどうするのか「トップと実務部隊のすり合わせ」をしなければならない。こういう「仕事の感覚」が大切である。
・ 正直な思いは先のブログにも書いたように、早いものでこれがくると「ああ、遂にこの季節がやってきたな」と思う。これから来年春までの「長丁場」となって「戦いの日々」は続いていくことになる。以上のような表現の中に私の「心象風景」が現れている。まあ「やる気と不安のごちゃ混ぜ五目御飯」の感じだな。
・ 今年は「歴史的な転換点」で「関西大学連携校となった最初の募集活動」である。「関大コース」と「特進コース」に分かれ、関大コースは「中高一貫」とした。「授業料はどちらも同じ」である。せっかく「立派な入れ物」は作ったが肝心の生徒が来てくれなければ何もならない。
・ まず「本日の説明会はどのような方法でお知りになりましたか?」という問いに対しては例年通りであるが圧倒的に「ホームページ」と「」と分析される。次に「知人から」とその次に「本校保護者から」が来る。
・ 以上のことから分かる事は「私立学校に行かせたいと考えている保護者」は「相当に研究」しているということである。「新聞広告」とか「ちらし」の比率は段々と少なくなってきており今年は特に顕著である。スパーの安売りチラシみたいには行かないのである。
・ ここに「学校広報と塾の重要性」が分かる。今、広報情報委員会は「新しいホームページ」に向けて検討中であるが私は「大いに期待」している。先ほど委員長にも言ったところだ。「世間をあっと言わせるようなものを作って欲しい」と。
・ 次の問いは「説明会で印象に残っていることを書いてください」であるが、これは少し付記しなければならない。「個人の自慢話」と受け取られてはいけないからだ。自分が自分のことを書くのははばかられるがこれは「校長日記」だから自分のことを書いても許されると思って正直に書くと以下のようなことになろう。
・ 「校長のブログ」「校長の熱意ある説明」「校長の熱のこもったお話」「校長先生の印象」「校長先生のメリハリ」「校長先生の説得力」「「校長先生のパワフルさ」「校長先生の迫力」「校長先生の明確な方針」「学校長の言葉」「校長先生の企業人マインド」「校長先生の・・・」等々のオンパレードである。
・ 私は「熱意」と「誠意」と「責任」を持ってご説明した。「必死なのである。」胸のうちを正直にお話した。急遽3人の先生を壇上に呼び集め、彼らを紹介しながら「素晴らしい先生の集まり」をPRした。それらが「一言一句」保護者に伝わっているのである。
・ 通常トップは冒頭に「通りいっぺんの挨拶」をして「お仕舞い」であるが、私は違う。数多く結婚式の仲人をしてきたが「新郎新婦を売り込む」事には慣れているのだ。「正直にありのままに」本校の良い点を売り込むことが「私の仕事」である。
・ 今日、政治の世界も企業社会も「トップの声」が極めて重要である。麻生総理の悲劇は「トップの声が伝わらない」からである。大阪府の橋下という若い知事は行政経験が全くなくとも「知事の声が大阪府を変えつつある」のである。
・ 言葉で言えば「面倒を見る学校」「面倒見の良い学校」「いじめは徹底的に追及」「しつけ教育」「今を生きる」「フレッシュな先生を揃えている」「クラブ活動」「多聞尚学館」「週末スペシャル」そしてもちろん「関西大学連携」が保護者の「胸に突き刺さっている」ことがアンケートから読める。
・ 私は過去2年間のデータを持っているのであるが今年の特徴は「先生方の熱意」とか「先生方のお人柄」「教員の意気込み」「先生方の活気」「先生方の一生懸命さ」とかがとても多くて私はとても嬉しく感じた。
・ また「在校生の挨拶や声が聞けて大変良かった」というのもあった。「校庭で見かける生徒さんの姿」。こういうにもあった。「学校の皆様が元気で明るくて感動しました」「クラブと勉強の両立が出来る環境に魅力」。
・ こういうのもあった。「母親がのっぴきならない用事で祖母が代理で参りましたが、校風、先生方、教育方針、すべてに好印象を受けました。受験は再来年になりますがそれまでにしっかりと勉強して自信を持って貴校を受験して欲しいと思います」とあった。私にはこの人が分かる。一番前でじっと私を見入っていた品の良いお方だった。
・ とにかく一生懸命誠実に取り組めば「応えは返ってくるもの」である。特に今回は「準備と教職員のプレゼンテーションが良かった」と私は思う。「データ」を出して「証拠を揃えて」説明することが重要で、そのことが「すべてを開示することで相手の胸に届く」のである。
・ 今後とも「謙虚に」「誠実に」「判って頂くための努力」を惜しんではならない。特に私立中学は不景気の中でも「公立の現状に見切りをつけて私立中学人気は底堅い」ものがあるだけに、競争は激しいのである。
・ 「関西大学連携浪速中学校」は22年度に開校するだけに今年の成果が問われる。「関西大学連携校」として恥ずかしくない教育成果をあげ、恥ずかしくない入学者数を確保していこう。北部、南部の高校に昨年あったような「惨敗」といわれるようなことにならないようにしなければならない。
・ 繰り返すが、これは単に入試広報室だけのテーマではない。「学校全体の大きな課題」である。「一隅を照らす」という言葉があるが浪速に勤務する教職員は一人ひとりがそれぞれの持ち場での「歩く広告塔」と考え、頑張らねばならない。「飯の種」である。