2010年2月28日日曜日

2月28日(日)その2:教員は終身雇用の世界?











・ 「教員社会は基本的に終身雇用の世界であった」というのは大筋で間違いないだろう。教員と言うのは基本的に昇進昇格というのはない。同期が偉くなったからと言って「身を引く」様なことは無い。悪いことさえしなければ「定年まで給料が上がり続ける世界」である。少なくともいままでは。
・ 即ち「階級のない社会」なのである。戦後60年「ズゥー」とそのような状態で来たのだが、そのことの「不条理」に社会は気付き、「おかしいではないか」と騒ぎ始めたのである。それは平成12年から14年くらいからだと私は考えている。
・ 階層の無い社会にはまず経年の変化で間違いなくその「組織は重篤な病に陥る」。これだけは間違いない。20世紀の後半、共産主義は完全に敗退した。様々な要因が識者で考察され議論されているが基本的には「誰もが働かない」ことではないか。
・ 「社会保障が前面」に出て、国が何でもかんでも面倒を見るという社会は活力が失われていく。共産主義国家は「一党の独裁」「一人の独裁者」が生まれ、汚職と汚辱にまみれた社会になるというのも皮肉な構図である。
・ 私は今まで書いてきた数々の教育論文で「学校社会はコミューン化された社会」と書いてきた。学校経営や校長の方針など無視して「教員が教員の手で教員のための施策を全員の多数決で決定」していくという図柄はまさしくコミューン化社会である。
・ 大体「頑張っても頑張らなくとも処遇が同じ」というのは「人間心理」から考えれば人間の本能に対して全く合致しない思想だということではないか。階層の無い社会はまず間違いなく「組織を腐敗」させていく。階層が無いのだから誰も「叱ったり」「咎めたり」しないからである。
・ 教員社会は「叱ったり、咎められたりする社会とはほど遠い世界」であったのである。生徒の夏休みを自分の夏休みと勘違いし、サラリーマンは蒸し暑い夏を一生懸命に働いているというのに教員は「たっぷりと休み」、授業がなければ朝ゆっくりと出勤し、授業が終われば早退するといった学校社会の「甘えた構造」に社会は気付いたのである。
・ 公務員である公立の教員に対して伝家の宝刀「分限免職」を行政は使い始めた。懲戒処分による解雇ではないが「貴方は教師としての資質に欠ける」として「免職処分」をこの2ないし3年で使い始めたのである。大阪府において中学校の問題が解けなかった高校の数学の先生が「クビ」になった時は大騒ぎになったものだ。
・ 生徒の為に自分の時間を犠牲にして頑張ってくれている教員と何かと自分のことを優先させて考える教員や教師としての資質に疑問があるような「教員の給与が1円も違わない」で誰が真面目にやろうと言うのか。その対策の結論が「評価システム」の導入と言う論理である。
・ 私は行政のこれら二つの伝家の宝刀「分限免職と評価システム」を高く評価する。私立高校も仕組みを整備して早くこれらの制度を導入しなければならない。私は着任後すぐにこれらに手を付けて制度化した。
・ 公立学校では組織的には従来の校長の下に副校長制度を設けたり、教頭以外に主幹教諭とか主席教諭とかの「中間管理職」も設けるようにしてきている。又見本となる教員を「指導教諭」として遇する制度も今や一般的になってきた。
・ どれもこれも「組織のトップである校長のリーダーシップを支援する目的」であった。一人でやれないような校長も困ったものだが戦後から続く「校長は鍋蓋のつまみ」を打ち破る必要があったのである。とにかく「学校を組織化しようと躍起」だったのである。
・ しかしいずれの方策も言い換えれば「学校は学校として守り、教員の終身雇用を保証」してやろうという「温かい親心」ではないかと私は思うようになったのである。歴史が証明するだろうが果たしてそのような施策は真に学校のため、生徒のためになるのかという疑問である。
・ 今必要なことは「教員の終身雇用を見直す」ことではないかというのが私の意見である。駄目な教員はどうやっても駄目であり、今の学校社会はこれらの駄目教員に「時間もお金も、手間隙もかけ過ぎている」というのが私の意見である。
・ 「学校改革とは教員という仕事の終身雇用の形態を見直す」ということではないか。そのように思えてきた。行政は「分限処分」がある。私立高校には「就業規則」違反はあるがそれは「懲戒処分」であり、考え方が異なる。
・ 「貴方は本校には必要としていません」と法的にもクリアできて、解雇できる方策を私は探し求めているのである。しかし公立の分限免職についてもそうであるが「教員の資質がない」ことを「合理的に証明することは相当ハードルが高い」と考えておかねばならない。「経営側の覚悟」がいるのである。
・ しからば私立高校には何があるのかということであるが今のところ「早期退職優遇制度」しか思いつくことはないのである。本校でも一昨年大量の早期退職者を出した。それは「早期退職優遇制度を創設して割り増し退職金を上積み」したからなのである。
・ すべての人が「問題と評価された教員」ではない。「人それぞれに事情」があって、それら「全てを包含して退職する、転職したい教員を公明正大に支援する制度」が最も合理的である。その中に不要な教員が入っておれば「それで良し!」とするものである。
・ 大きな問題は、この制度は「財源が必要」となることである。一人当たり数百万円の上積み金が必要であるから財政に直結する問題であるが、「少なくとも本校で教員でいて欲しくない教員がいる」ことの「精神衛生上の慢性的悪さ」を考えれば、辞めて貰ったほうが学校の総合力は期待できる。
・ 教師が教師の仕事以外に興味や関心を持ち始めたら「おしまい」である。だから「教師の兼職兼業は厳しく規制」されている。一般企業でも当たり前であるが、少なくとも「この道一筋」が教員には求められている。
・ 「趣味が嵩じて」というわけにはいかないのである。趣味や関心は全く構わない。ところが趣味を超え始めると当然本業のほうがおろそかになるのである。人間の弱さである。「二束のわらじ」は履けないのである。私立学校が故に教員の資質はその道一筋の崇高さが求められると私は思うのである。
・ 大体趣味が嵩じてくると「休みが多くなる」「授業に関心が行かなくなる」「従って教材研究などがおろそかになる」となってきて「生徒に真正面に向き合わなくなる」ものである。趣味や関心のために教員をしているようなものである。
・ そういう教員には趣味を活かして第二の人生を歩むように勧め、そのための財政的支援をすることが、「その教員にも残る教員にも幸せなこと」なではないか。とにかく私立学校は生徒が来なければ教員が何を言っても始まらない。
・ 学校が生徒減少から経営難に陥り、「整理解雇」をせざるを得なくなって、「積年の不届きな言動」から整理解雇の対象者になった教員が、慌てて団体に頼り法廷闘争を持ち込んでも教員の理屈など全く意味は無い。大体教員は「経営ということが全く分かっていない。」
・「臭いものに蓋」をするのではなくて「腐りつつあるものは早期に除外する」という行為が当事者にもその学校にも意味あることではないだろうか。ある学校では駄目だとしても心機一転他校で仕事をする場面もあるとの意見には私は反論する。「駄目な者は何処に行っても駄目だろう」。教師を辞めるしかない。