2010年4月14日水曜日

4月14日(水)関西大学訪問






















・ 「関西大学連携浪速中学校」が動き始めた。「校名が変わる」と言うことは実は大変なことで「学則」をはじめ「公文書」すべてが変わってくるのである。私や教職員の名詞まで当然のごとく変えたのである。
・ 入試広報室が使う封筒や資料は昔のままというわけには行かないが、我慢できるものは今あるものを使っていく。しかし色々と「必要コスト」はあるものとして覚悟はしている。しかし関与する人間の「意識が最も重要」だから学校が保護者宛に出す手紙なども「書き方」には注意を要すると私は教職員には何回も伝えて来ているが・・・。
・ しかし中には「極楽トンボ」みたいな教員がいて、未だに「浪速中学校・浪速高等学校」と書いてくる「」もいるのである。何回も何回も言っているにも関わらずだ。こういうのを見ると本当に私は腹が立つ。
・ この前は公文書に「関大連携」と書いてきた教員がいた。「関西大学連携」としっかり書かねばならない。私は無言で付き返したのである。こういうのを「笛吹けど踊らず」というのか「馬耳東風」というのか。単なるアホか。
・ 今までは「浪速中学校・高等学校」という言い方や表現方法であったが、これを「浪速高等学校・関西大学連携浪速中学校」という風に正式に改めたのである。これが関西大学連携浪速中学校・高等学校」と書くと高校まで連携校だと誤解を与えかねない。
・ これに伴って「正門の表札」を取り替えた。この時、向かって右側に高校の表札を持ってくるのか中学校を持ってくるのか、「右大臣と左大臣のどちらが上か」などの議論があったが結局のところ右側に高校が来たのである。これで立派な「学校の表看板」が完成した。
・ 本校の長い歴史で「22年度は一つの節目の年」になったと思う。昭和58年理数科が開校された。そして翌年の昭和59年に学校法人名が「浪速学院」から「大阪国学院」に変わった。そして昭和60年に浪速中学校が「再開校」されたのである。
・ この再開校というのは変な言い方であるが「同窓会報」にそのように書いてある。再開というのが実に興味深い。記録によれば昭和34年に中学卒業生を16名出して以降卒業生を出したという記録はない。
・ 当時の本校は圧倒的に高校主体の学校で戦後の昭和23年に新制高等学校に転換して「旧制浪速中学」は高校として存続することになった。しかしこの時に中学校は新生中学として「単なる高校の併設校」として「細々」と存続させて来たのだろう。
・ しかし戦後15年経った昭和34年に大きな転換を迎えることとなったのである。遂には入学者が20名を切るまでに落ち込んだから、この年募集を停止し、在校生を送り出した「昭和36年に新制浪速中学校の看板を降ろし」ものと私は推察している。
・ そしてその後24年間の時が経ち、昭和60年に「もう一回中学を立ち上げよう」と「再開」したのである。「新生」ではない。再開なのである。だから「再開校」なのである。一般的に言って一旦廃止した学校をそのままの同じ経営母体が再開するのは例がないのではないか。聞いたことがない。
・ このように浪速中学校は「波乱に満ちた人生」を送っているのである。ところが再開した経緯については確かなる文書が何処にもなくて詳細は分からないのだが、当時のOBの有力者が当時の校長と話をして「俺の卒業した中学がなくなって寂しい。復活せえへんか」となって決まったらしい。しかしとにもかくにも昭和60年に浪速中学校の再開に関係した人たちは結果として「偉い」。私は賞賛したい。
・ ところが「確固たる戦略を持たず再開」したものだから、そこには「新しい考え」などなくて、その結果「中学は寂しい運命」をたどることとなった。再開後から「苦労の連続」であったと思う。それは生徒数の推移を見れば分かるのである。
・ 再開された浪速中学校は結果として平穏無事とは行かず「低空飛行」で進むこととなった。実は再開した年の入学者数は64名でこれが9年間続いた。この9年間の平均生徒数は60名程度であった。その後平成6年と7年に102名、105名と大台に乗って一安心かと思いきやその後「落下の一途」をたどったのである。
・ そして再開後20年そこそこで「塗炭の苦しみ」を味わうことになる。即ち生徒数の更なる低迷である、平成12年から学校改革の始まった平成19年度までが「地獄の7年間」となった。
・ この7年間で浪速は「全ての内部留保」を失う羽目になったのである。この7年の入学者数は32、27、34、30、30、39、34、と一クラス規模であった。中学校の損益は「大赤字」で最早やっていけないという時に「私は着任した」のである。
・ 「最初の仕事は中学をやめるかどうか」の結論を出すことであった。結局最後の努力をする方向で結論を出し「学校改革」を推し進めた。その後の入学者数は平成19年度が70名、20年度107名、21年度120名と来たのである。
・ しかし私はまだ「不安」が消えなかった。これは今でも消えていない。その結果私は「関西大学へ走った」のである。系列の大学を持たない本校は「先行き厳しい」ことは間違いない。今は頑張って結果を出しているが「私がいなくなった後にどうするのか」心配でならないのである。
・ そして今年が最初の「関西大学連携浪速中学校」として募集の最初の年度であった。志願者数は大幅に増えて結局入学者数は121名となったのである。「質量ともに我々は満足」した。このようにして関西大学連携浪速中学校は順調なスタートを切ったのである。
・ 中学3年生まで「子ども手当て」が支給され「高等学校の授業料の無償化の動き」の中で「少子化」という厳しい現実を迎え、ますます公立私立入り乱れての「生徒獲得競争」が激化していっていることは間違いない事実である。
・ 我々は今年の募集活動で「いやというほど中学の募集の難しさを思い知った筈」である。22年度は中学長期戦略の初年度であった。言って見れば「浪速中学長期展望元年」であったと思う。活動結果を厳しく見つめ「23年度募集活動に反映」していかねばならない。
・ 他の私立中学も同じことを考えているのであって去年と同じではその分遅れてしまう。「常に新しい息吹を吹き込む」ことが大切である。そして「急がば回れ」ではないが何より効果ある方策は「良い教育」を展開することである。
・ 常々言っているように「目の前にいる生徒に良い教育を展開」することが何よりの広報宣伝である。「新生」関西大学連携浪速中学校」には大きな教育ツールが三つある。一つは「多聞尚学館」一つは「新武道館」そして一つは「堺のグラウンド」である。
・ 昨日から中学1年生121名は「オリエンテーション合宿」で多聞尚学館に一泊二日の予定で出かけていった。そこで徹底した今後の「6年間の過ごし方」を教示したのである。「早く行け、早く行け」と私はせかしたのである。
・ 私はバスの出発を見送り、開校式に出席し記念写真をアレンジし、授業風景を観察したのである。「大変良いスタートを切った」と思う。中学校全教員18名は「選りすぐり」を投入している。頑張って貰わねばならない。本校にとって中学生は「金の卵」どころではない。「ダイヤモンド」にしていかねばならない。
・ 私は本日「関西大学の理事長以下法人幹部」のアポを取って千里山に赴いたのである。理事長には大歓待して頂いた。今年の入試と入学の結果をご報告申し上げ「今後の連携の更なる結びつきの強化」を私はお願いし気持ちよく関西大学を後にしたのである。