2010年5月7日金曜日

5月7日(金)狂気と紙一重のリーダーシップ











・ 昨日、ブログを休んだら早速反響があって「もう止めるのか」とか何とか言われてしまった。時間が取れなかっただけである。従って、その分、今日は特別に「力を入れて書く」ことにした。自分で言うのもおかしいが「面白い視点」だと思うので読んで頂きたいと思う。色々な意見があろうが「論考テーマの提供」だと思っている。

・ どの新聞で何時ごろだったか忘れたが興味深い記事があった。証券会社大手の野村證券の会長を務める古賀信行さんがインタビュー記事で印象深いことをいておられたのである。「出来ないことを知る強み」という見出しもついていた。
・ 古賀さんは数年前に持ち株会社の野村ホ-ルディングスの社長を退いたのだがその時の理由が「自分ではできないことがある」というものだった。社長になった時に同世代の友人から言われたという。
・ 「古賀ちゃんは会社を変えるトップには向かない。狂気と紙一重のリーダーシップがないから」というものだった。古賀さんは「まったくその通りです。私はいわゆる調整型の人間です。」と明言している。
・ 「好きな言葉は“中庸”。入社してから人事や企画の仕事ばかりで、一方向に舵を切って社員を強引に引っ張っていくタイプではありません」と。これらの記事を読んで私は「立派な人物だ」とほとほと感心したのである。
・ まずここまで「自分を凝視し観察」しているトップは少ないのではないか。経験年数と共に「自信過剰」に陥り「自分はオールマイティ」と錯覚してしまうのが人間の悲しさと弱さである。「成功体験」にとらわれるのである。
・ そして古賀さんは後継者に一点だけ申し継いだというのである。「会社の歴史に節目を入れよう。どんな形でも良い。野村に“断層を伴う変化”を起こして欲しい」と言ったのである。断層を起こせというのである。私はこの古賀さんを尊敬する。
・ そしてその次の態度が又偉い。「あんなに会社を急激に変えて大丈夫ですか、会社が消えてしまうのではないか」と言いに来る人間に対して何も言わず「変化は始まったばかりで“徹底的に突き抜ける方が先”です」と言われるのである。「中途半端は駄目」だと言っているのである。この言葉も素晴らしい。
・ しかし考えてみればこの古賀さんもこのような考えが出来るという点では「狂気の面も有する卓越したリーダー」だと思うのである。「バランス感覚」があるのである。「自己保身」が強いトップの中にあって「後継者に後は好きにやれ」と「スパッと身を引くリーダー」も些か狂気の面がなければ出来まいにと私は思うのである。
・ 私は古賀さんの記事の中で、読後、特に「狂気と紙一重のリーダーシップ」という言葉に心が残る。私はこの言葉からまず戦国大名の「織田信長」を思い浮かべた。間違いなく彼は狂気と紙一重のリーダーシップを発揮して戦国の世から「近世日本への変革の扉をこじ開けた」のである。
・ 「日本と言う国の有り様を変えようとした」のである。信長が調整型という人は誰一人としていない。彼は「破壊者であり創造者」であった。人々は「彼のアイデアに驚き、狂気に近い激しさに驚きおののいた」のである。

・ しかし「信長は独裁者」であっただろうか。独裁者と言えばヒットラー、ムッソリーニ、あるいは近隣国の将軍様を思い浮かべるが、信長は独裁者ではなく、「徹底的に部下を使いこなす天才」であった。「マネージメントの天才」というのが私の意見である。信長のマネージメントの中に狂気があったのである。
・ 私は「狂気と紙一重のリーダーシップ」と言えば最近では小泉純一郎元総理、大阪府の橋下知事、名古屋市長の河村たかし市長、そして鹿児島県阿久根市の竹原市長などがすぐ思い浮かぶ。彼らは程度の差はあれ狂気というものを有している。
・ 今の中央政党の自民党にも民主党にも狂気と紙一重のリーダーシップを発揮する政治家はいない。鳩山総理も谷垣総裁も完全な調整型人間である。宮崎県の東国原知事は「鶏肉とマンゴーのセールスマン」であって政治家ではない。彼にはお笑いはあっても狂気はない。
・ 大阪市の平松市長も狂気と紙一重のリーダーシップを発揮される人ではない。完全な調整型人間ではないか。最近では知事が進める「府市再編 大阪都構想」を巡って両者の間が「きな臭く」なってきた。4月21日の毎日新聞には市長は「知事の手法に違和感」とかなんとか言って批判していたし、昨日は財政赤字問題でまたまた火花を散らせていた。
・ 市長は知事の手法は「意見の合わぬものは敵」と批判していたが、考えて見れば昔から政治闘争も宗教戦争もすべて意見の合わぬものは敵として「死ぬか生きるか」の戦争をしてきたのではないか。意見の違うものを敵と言ってどこが悪い。
・ 橋下知事は「大阪維新の会」というローカルパーティを立ち上げた。「大阪市をばらばら」にして「府市合体でワン大阪」を目指すという。これに対して穏やかならぬ平松市長は「意見の合わぬ者を敵とみなす知事の手法は悲しい」とか言って嘆いているそうだが、これは市長の方がおかしいのではないか。悲しいとは何事?
・ 昔から「政敵」と言って政治家は「命を取るか取られるか」であって最後は選挙で「民意が反映される」のだから「反対意見があるならその理由を明示」してご自身も戦わなければなるまいに。
・ 大体調整型の人間は自分では狂気の発想など出来ないものだから狂気型を批判する。そして得てして「対案を出さない」のである。もっと言えば「大体、調整型のリーダーってこの世に存在するの?」という疑問が私にはある。
・ 「足して2で割る」調整型に改革など出来ないのではないか。それは「妥協」であって本質は変わっていないから「構造も価値観」も変わらないのである。それを「八方美人」という。「世の中に全ての人間を満足させる方策は基本的にはない」筈である。
・ リーダーは過去に学び未来を見通して「自分の思う方向に全軍を進める」のが仕事である。そして「結果責任を全て負う」ことである。そのためには「トップは誰よりも勉強していかねばならない」。
・ 私が最も忌み嫌うのは「神輿に乗っているだけの似非リーダー」と「意見のない人間」である。あってもそれを「陰でとやかくいう」タイプである。とかく影で「ゴチャゴチャ」言っているような奴が世の中には結構多い。
・ そういう輩の致命的な点はまず「論理構成が出来ていない」ことである。要は「考えが浅く勉強していない」ことである。「好きか嫌いか」の感覚だけで物を言う連中である。一見偉そうに言っているが「腹の底」は見えていて「しんどいことはいやだ」「楽をして金を儲けたい」「家に早く帰ってパチンコに行きたい」「自分が損しなければ良い」「地位に恋々とする」「自己保身と防御だけ」とかの連中なのである。
・ そういうタイプに厳しく「徹底して物を言い、時に外に追いやる」ことが「狂気型人間の特徴」である。私なども人からは狂気型と診られているのかも知れない。しかしこれには反論があり、それはいずれ又。
・ 狂気型の人間は「出来高」「出来上がり」「成果」「実績」「評判」「評価」を極めて気にする。気にすればこそますます狂気型になっていく。そして「改革の道にふさがる連中を排除」しようとなるのである。橋下知事を見ればよく分かる。
・ そうすることで「責任放棄」「無責任」という洞穴に自らを追い込むことに対抗しようとする。「狂気型人間に共通するのは責任感と使命感」のみである。そういう「うごめき」は外部の人間には分からない。人が時に口では責任感と言っているが狂気型の人間が有する責任感というのは並大抵のものではない。

・ 今喧伝されている鹿児島県阿久根市の竹原市長が「独裁者」という本を出した。これについて別途詳述する。中々面白い本である。この人は少し激しいが独裁者ではない。地方自治の問題を大変良く勉強されている。立派な地方行政のリーダーであると思う。この人も狂気と紙一重である。
・ 大阪府の橋下知事、名古屋の河村市長、鹿児島県阿久根市の竹原市長が今面白い。民主党の鳩山さんも小沢さんも面白くない。自民党の舛添さんも些か狂喜型?国民新党の亀井さんは狂喜型に近い?とにかく「地方に面白いリーダーが出始めた」。共通して「狂気型」である。