2010年6月3日木曜日

6月3日(木)サービス精神











・ 「サービス精神」という言葉がある。「あいつはサービス精神がある。」「あの人の良い点はあのサービス精神だ」という具合である。このように言われることは根本的には「悪いことではない話」。ところがだ。この背景となる精神を考えてみるとあながち良い話であると言うことも出来ないのではないか。
・ じっと考えてみるとこのサービス精神という「語感」「ニュアンス」には「言う側の思い上がった感情」を感じられないか?私はこのように感じる。まずこのサービス精神という言葉を使う側は「サービスの恩恵を受ける側でする側の言葉ではない」のが一般的である。
・ 「自分にはあのようなサービス精神はないし、自分には出来ないが、サービスを受けるのは好きだ」と言う具合である。何であいつはあのように「こまごまと気を使うのか」と最初は素直な感情もあるのだろうが、そのうちに「侮蔑に近くなる」のである。勿論本人は気付いてはいない。
・ サービス精神を発揮する側は元々自分はサーボス精神が旺盛などとは思っていない。小さい頃から教育や育ってきた環境などから「身について来た」ものと会社などに入って「鍛えられて身についた」ものと二つのタイプがある。

・ そこで教員という人たちはサービス精神が旺盛かどうかという議論に発展させていかねば面白くも何ともない。「教員はサービス精神が旺盛というには程遠い」というのが私の意見である。
・ これは私の経験から来る観察結果である。少なくとも教師にはサービス精神があるという話は聞いたことがない。「サービスを受けるのは大好き」であるが人にサービスするのは嫌いというより「思考が及ばない」のではないか。
・ 大学を卒業したその年から学校の「先生、先生」と呼ばれ、生徒は勿論、その保護者からも「一目も二目も置かれて」、毎日を過ごせば「サービス精神を身につけよ」などと言っても土台無理がある話なのである。
・ 「失礼ですがお仕事は?」と何かの私的な会合で聞かれて「高等学校の英語の教師をしております」と言った瞬間に相手のまなざしには「驚きというか、尊敬というか」一種独特のものがキラリと光る筈である。だいぶ変わったとは言ってもまだ教師の呼称は偉大である。
・ 恐らく世界共通で社会の教師を見つめる眼差しはそのようなものであろう。ここで気をつけないといけないのは「教師という職業を見つめる眼差し」で目の前にいる教師個人そのものを見つめるものではない。
・ 教師という職業が素晴しいから貴方様も立派な人であると飛躍した論理からくるまなざしであって、その点を「誤解して受け取る教員」では仕方がない。しかし職業の持つ「魔力」は「人智を超えた作用」を人間に働かせるものだ。それが傲岸不遜、一言で言えば「偉そう」にすると思われるのである。

・ 「教育はサービス産業」と私はかって教育論文で「喝破」したが、特に民間人校長が誕生するに伴って教育界に突如出現してきた言葉であろう。しかし校長経験が長くなるに連れて最近では必ずしもこの「教育はサービス」と頻繁には言わなくなってきている自分に気付く。
・ 「ゆとり教育全盛時代」に「子どもの個性を尊重する」「やる気の出てくるのを待つ」「教師は支援するのが仕事」だと「心地よく耳に響く教育論」が実は「教師のサボリ」を誘発したとの私の論点がある。識者の中にも賛同する声は多かったのである。
・ ところが私立高校に転じて「一心不乱の学校改革」をしてみると「私立学校の教職員精神構造が公立とは全く異なる」ことに気付くことになってきた。私立の教職員は「サービスと言う言葉」は使わないし元々その概念さえないのだろうが「一生懸命生徒のためにサービスしている」のに気づくのである。
・ 時に「献身的」でさえある。これは私立学校の教職員は「自らの置かれた立場」を認識しているということではないか。私立は生徒が来てくれなければ「成り立たない」。幾ら高邁な教育論を展開しても「入学する生徒が十数名では意味はなくなる。」
・ 校務運営委員会でこの5月末で退職された副校長が「昭和57年からの本校の歴史と他の私立高校との比較データ」を示して「さよなら講演」をしてくれたのだが結論は「常に新しい何かを生徒に提供することが最重要」ということであった。
・ これも「新しいサービスの提供」という意味であろう。新しい科コース、新しいカリキュラム、新しい校舎、部活動の充実なども「生徒に提供するサービス」と考えることが出来る。確かに入学者数が落ち込んでいる他の私立高校を凝視してみるとそのような傾向が見て取れる。
・ 木村改革の3年間は「新しいサービスの提供であった」と私も総括したい。確かに「学校行事を改め、授業時間数を大幅に増やし、多聞尚学館を開館し、今堺にグラウンドを開設しようとしている。そして年末には浪速武道館の威容」が見えるようになる。
・ 教師は生徒のために「授業の工夫」をしてくれ、「生徒生活指導も充実」させ、「部活動は活性化」している。以上のような「浪速トータルの総合力」が入学者数を250人程度から500人を軽く超えるところまで伸びたのである。
・ このように考えてみると教育界でのサービス精神とは「感化させる精神的なもの」と定義したいと私は思う。そこには「奉仕」「犠牲」「貢献」的な意味合いがある。この点が学校の与えるサービスと一般企業におけるサービスと少し異なる概念であると感じるようになったのである。
・ 企業には利益を伴わない奉仕、犠牲、貢献などは基本的に「背任に近い」もので「利益を上げることが正しいこと」なのである。そのようにして株主は喜び、社員は生活が安定し、顧客も満足するのである。
・ 「株価」が低い企業は色々理由があるが要は「買われていない」ということである。学校で言えば「志願者数」であろう。「赤字決算」では何も出来ず株主配当は出来ず社員の給料のカットに繋がることは「罪悪」なのである。
・ 「教育産業の利益とは一体何なのであろうか。そのためのサービスの提供とは一体何なのであろうか。」もう一度じっくりと考えてみたいと思う。その前にまず教師の出来るサービスという行為を定義確認しなければなるまい。
・ そして教育界と実業界のサービス精神が一つなって修練していく精神構造の最終的な表現方法は「目配り・気配り・心配り」ということではないか。このように考えていくと教師と言う職業を生業としている人々の精神構造が極めてよく理解できる。
・ 「さりげなく」「上手く」「仰々しくなく」目配り気配り心配りできる人はどの社会においても人々の尊敬というか、そのニュアンスの籠もった賞賛を受ける。「あいつはサービス精神が豊富だ」などと「目線」が「見下ろしではなくて謙虚そのもの」の本間物になるのだ。
・ 生徒への目配り気配り心配りとは一言で言えば「面倒を見る」ということだろう。「面倒見の良い先生」を一番良く知っているのは実は「生徒自身」である。勿論生徒は教師からサービスを受けているなどの概念はない。
・ 「あの先生は自分のことを知っていてくれる。」「先生には面倒をかけどうしであった」などが生徒の声から出てくる教師は間違いなく「良い教師」である。私は教員、教師、先生という言葉を使い分けているが生徒はほとんど「先生、先生」である。
・ 「目配り気配り心配りできる教師、生徒に対して面倒見の良い教師が本校が求める教師」である。結局この思想哲学は単に教育界のみの話ではない。産業界も全く同じことで上司、同僚、客先などに目配り気配り心配りでき、「面倒見の良い人間が大成している」のである。