2010年8月28日土曜日

8月28日 遍路行 二十一日目 阿波・土佐の二国打ち終了

 二十一日目 8月28日(月) 阿波・土佐の二国打ち結願


 足摺岬の38番金剛福寺を打てば普通はその日は足摺岬にて宿泊というのが一般的らしい。しかし僕には不思議なくらいこだわりは無い。推して推して進めてきた歩き遍路であるが、西南の端、足摺岬において感傷を深める時間も無くたった1時間の滞在で「きびすを返して」39番延光寺を目指した。ここを打てば阿波と土佐の二国打ちが完全な形で完了する。当初からここで一旦大阪に戻り、残る「伊予・讃岐の二国打ちは10月」と決めていたのである。区切りが付いたとなると一刻も早く大阪に戻りたいとの気持ちが沸いてきて39番延光寺までは駆け足に近い感じで急ぎ、タクシー、鉄道、新幹線を使ってその日の内に天王寺のマンションに僕は戻ったのである

① 民宿「久百百」を早朝5時には出発した。昨夜来の雨はまだ少し残っており雨具をまとっての出立となった。元気の良い女将さんはおにぎり、飴、バナナ一本を持たしてくれた。そして絶対に私の言った道を通るのよと念を押されての出発であった。昨夜の内に大学生とはお別れしたから1人での旅立ちとなる。


② 歩き遍路が使う言葉には様々なものがあるが「逆打ち」という言葉もその一つである。「逆に向かって歩く」ことを言う。1番から2番と順番に札所を打つのではなくて5番から、4番、3番と逆に進むことを言う。今日は短い間だが「逆打ち」となった。逆打ちは多くの歩き遍路と遭遇できることになる。今日は特に多かった。大体人間に興味がある僕は遭遇する歩き遍路に興味を抱く。それに歩き遍路は大体歩き能力が同じであるから似たような日に出発すれば会ったり、離れたり、又会ったりする。この関係がとても面白い。今回僕も大学生のXX君のように何回も会ったりするのだ。


③ 今日だけで4人の歩き遍路に会う。長崎県の若者、薄汚れた服で完全に野宿遍路、「まむしに会いましたばってん・・・」、埼玉の禰宜君と同じ、埼玉の大学4年生、半パンで半ズボン、足は豆だらけで5本指の靴下でスリッパ履き。もう1人は女、色っぽい。黒髪を流し、全身白に所々赤の小物、とにかく様々である。そうそう昨日追い抜かれた赤いリュックのおじさんにも会った。結局長い距離が歩けず、僕らより手前の民宿で泊まったらしい。38番には僕らが先に打ったのだ。歩きの早さだけでは駄目だと分かる。持久力がいる。こちらの方が重要かも知れない。


④ 問われる歩き遍路の行動マナーについて書いておきたい。足摺に至る窪津に素晴らしい遍路接待所があることはすでに記述した。今日も我々は往きも帰りもお世話になった。ここの堂守の方が言うには最近の歩き遍路の質の悪さである。特に若い女遍路は悪いと言う。お接待を当然として調子に乗り、図に乗ってずうずうしいのはまだ許せるとして、年寄りを騙したり、後で男友達を「連れです。」と急に出したり、酷いのになると中年男を上手くあしらい民宿代をすべて出させるとか、聞くに耐えないような話を一杯してくれる。逆に女歩き遍路を騙して自分の家に引き込むけしからぬ輩もいるらしい。見る方はやはり服装、身のこなし、話し方全てで分かるらしい。一部の心ない遍路の為に折角のお接待の文化が損なわれるのは悲しいことである。


⑤ 昨日、初めて金剛福寺の山門入り口で托鉢しているお遍路にあった。身なりはしっかりしており、側にリュックが置いてある。漆塗りの鉢を左手に持ち、般若心経を唱えている。興味があり、鉢の中を覗いたら200円入っていた。こういった観光客の多い石手寺とか善通寺とかは結構多いらしい。お寺の方も心得たもので身分帳をだし、お四国一巡で一回は門前に立つ事を許していると先の堂守はいう。「酷い乞食遍路もいますよ。僕らの子どもの頃は悪いことをすると、親からへんど(遍路ではない)の子になれ」と言って叱られたらしい。それほど歩き遍路というのは辛い社会的変遷を経て来ている。


⑥ 今ブームに近いお四国さんも今後どのような変遷をたどるのかよく見えないが、大切なことは1200年続いている88カ所霊場巡拝の文化を今後とも維持発展すべきと思う。形は色々あって良い。歩き遍路も、自転車も、バイクもバス団体ツアーも色々あって良い。巡拝の目的も人によって様々である。これでなければならないということはない。大切な事は「図に乗らない、調子に乗らない、自分の意志でしていること、遍路を他人のせいにしない、人に迷惑をかけない」ことである。と同時に遍路をしない人がしている人の事をあれこれ言わないことである。今の日本はあれこれ言う人が多すぎる。歩いてみて以上のような事をつくづく感じる。一回目のお遍路も残すところ今日一日となり色々と考えることが多い。


⑦ 途中まで逆打ちであったが半分くらいのところで道は山に向かって上り道となる。この山を越せば39番札所延光寺に至ると思えば足取りも軽くなろうものだがところがどっこい、殊の外蒸し暑くコンクリートからの照り返しもあって消耗した。途中の小さなスーパーや自販機でどれだけペットボトルやアイスクリームを補給したことか。スーパーの入り口に座り込んで「ぐいぐい」一本を息もつかせず飲み干すものだからお店の人が呆れて僕の方を見ていた。土佐清水市から三原村を抜けて宿毛市に入り30キロを歩いて遂に15時、土佐最後の札所39番札所の赤亀山(しゃっきさん)延光寺を打った。僕は何時もよりも念入りに納経を済ませた。着けば疲れていた体も回復してくる。もう歩かなくて良いのかと思う心が疲労を溶き流すのである。最後の日だから僕は念入りに納経を行った。その最中に大学生が到着した。つかづ離れず民宿「久百百」から同じコースを歩いてきたのだろう。








⑧ もう3時、まだ3時、近くには民宿も多くあるのだが僕は決心していた。ここで宿泊する必然性はない。今から大阪に戻ろうと決心したのである。まず歩いてタクシー会社を探し土佐黒潮鉄道の宿毛駅に向かった。そして駅前のビジネスホテルに申し込んでシャワーを拝借することとした。汗でどろどろの服と体をリフレッシュしなければ何も始まらないと思っていたからである。1時間できれいさっぱりして普通の姿のおじさんに戻ったが金剛杖と菅笠だけは仕方が無いので手に持って他はリュックに押し込み、鉄道に乗り込んだ。高知駅から特急電車で岡山行きがあるのにも驚いた。大変便利な時代に成ったものである。後は簡単で岡山駅から新幹線で新大阪に到着したのは夜の10時過ぎであった。このようにして私の遍路行阿波・土佐二国打ちの歩き旅は無事に終わったのである。後半戦伊予・讃岐の2国打ちは10月と考えているが今度はどのような日記が残せるのであろうか、楽しみである。後半戦はここ39番延光寺から歩きが始まる。