2010年8月18日水曜日

8月18日 十一日目 台風と歩く

十一日目 8月18日(金)   台風10号と共に

 ゆっくりと進む台風10号の進路を気にしながら、これを追いかけるように27番神峰寺を目指す。風と雨の中、初めての雨中の歩きである。目指すはまず高知城である。

① 6時30分食事、支払い7200円、荷物を纏め、7時20分出発。雨はまだない。風はやや強し。従い菅笠は背中のザックにくくりつけ、頭には日本手ぬぐいを巻いている。菅笠は風があるとあおられて仕方がないため僕は時々頭にタオルを巻く。この場合は日本手ぬぐいといわれるものが具合が良い。洋風は少し厚いのである。日差しが無い時はこれで良い。それにしても空はどんよりとして蒸し暑く、室戸の海は荒れている。


② 海岸沿いをただ一途に歩くのみ。様々な事を繰り返し考えながら歩くが、深い思索と言うわけには行かない。どちらかといえば動物的な考えになってくる。自分に何故か正直になってくるのだ。歩くということはこう言うことです。バスや車での巡拝と根本的に異なるところでしょう。誰も側におらず、気を使う人もいません。一人というのは自分に正直なものです。


③ 順調に歩を進めて、10時、空模様がおかしくなって、雨が大粒になりだした。慌てて携帯電話をぬれないよう隠したり、リュックにある納経帳の養生を確認します。お軸も大切です。手取り易く被れるポンチョは便利でしたが風があるとあまり使い勝手は良くなかった。でも背中に大きな荷物をしょっていますから洋風合羽はやはりどうも使い難くてポンチョにしました。


④ 羽根岬を回り、奈半利町に入る。ここも大師堂御霊跡があり、歴史的にも有名なところらしい。途中道沿いに「二三士の墓」というのがあった。こういうのがあれば必ず由来書きなどを読む。とにかく歴史が好きなのです。土佐勤王党の土佐藩士二三名が武市瑞山半平太とともに志半ばで討たれた場所がこの地だという。苔むした良いお墓でした。お参りしました。安田町に入る。雨はふったり止んだり。今日も又昼食の機会は失う。


⑤ 26番金剛頂寺から24キロの地点で右90度に右折。海抜450メートルの山登りである。3.4キロの「真ツ縦」といわれる急峻な山道が1.2キロも続く。勾配45度ですぞ。古い書物には「幽径九折りにして黒き髪も黄になりぬ」と言われているくらいの土佐の難所中の難所である。しかし昔の表現は本当に良いですね。感心します。


⑥ しかし途端に疲労を感じる。雨が強く降ってはまた止み、又振り出すとの繰り返しで、最後には面倒くさくなってポンチョはもう付けず、濡れるに任せている。びしょ濡れである。真夏の良いところはそれでも寒くないことだ。それにしてもこの山はしんどい。途中見知らぬ農家に立ち寄り、ザックを預かって呉れるよう頼み、身軽になって又歩く。この方法は一つのノウハウで、民家が無かったら道端に置いていくのだ。誰も盗む者などいない。遍路の持ち物に高価なものなど無いからである。ただ納経帳とお軸だけは厳重に雨対策をして持っていく。これだけはパスポートみたいなもので最も大切なものである。聞くところによると闇市場で高価に売れるらしい。


⑦ 15時ついに27番竹林山神峰寺を打つ。珍しく神峰神社と並んで建っており、神社とお寺が並んで建っている。ここから太平洋を一望出来る。「土佐の名水、神峰の水」と言われている小さな滝の水は旨かった。3杯もがぶがぶ飲んだ。その昔は有名なお寺であったらしい。よさこい節にも「・・・願かける、今は流行の安田の神峰」と唄われるくらい麓は賑わったらしい。ご詠歌は「御仏の恵みの心、神峰(こうのみね)、山も誓いも高き水音」と詠われる。山頂より民宿「吉兆屋」を予約する。電話口のお声は相当お年のようだった。






⑧ 民宿「吉兆屋」に投宿。僕一人であった。電話では本当に嬉しそうに響いた女将さんのお声であったが、本当に嬉しそうに迎えて頂いた。客は僕ひとりである。お年は後刻知ることになるが83歳、お一人でやっておられるとのこと。表現に難しい民宿であった。何も詳しくは言うまい。ただ、初めて経験する昔風の遍路宿であった。


⑨ 部屋はふすまで仕切られた部屋、洗濯機のある場所は薄暗く、幾分汚れた迷路のような廊下を通って行かねばならず、乾燥機はない。従って洗濯物は部屋で乾かす。ロープが張ってあるのだ。満艦飾である。風呂は熱くて熱湯に近かった。シャンプーなどもなく、それは良いのだが洗面器が汚れていて気持が悪かった。布団のシーツは所々すり切れているしシミが目立つ。ご飯の炊飯保温機はナショナル製であったが下のほうが完全に錆びていた。とにかく時代がかっている。料理のお皿は古い染め付けで、さも60年前戦後の物という感じであった。ひょっとしたら江戸時代の物かも知れない。部屋には蚊取り線香が必需品で隙間から虫や蚊が入ってくる。布団は背中が痛くなるほど煎餅であったが、痛んだ背中の為にはこれがよいと思ってそのまま寝た。遍路宿とはこういうものであろう。


⑩ 女将さん曰く、28歳で嫁に来て55年遍路宿をしている。主人は10年前に亡くなった。息子は今年定年で南国市にいるが、帰ってきて呉れるかも知れないが今は自分一人でやっている。この遍路宿の仕事が私の生き甲斐ですと。女が年を取るとお節介でもなく、面倒見が悪いでもなく、あるがままに淡々としているが良い。ただ少し、汚くなるところを注意しなければならない。この民宿もとにかく目に見えない所は汚れている。見えるところはまあまあなのだが。恐らく手が回らないのであろう。ただし煮物などは極めて旨い。絶品であった。設備投資はしても全体のバランスが崩れており、何かちぐはぐであるが、女将さんのお人柄が良ければそのようなことはどうでも良いと思えるから不思議だ。


⑪ 遍路社会ではこの「吉兆屋」は有名である。女将さんが有名である。目の大きいきれいな人である。僕はこの民宿のただあるがままに全てを受け入れた。こういうのがあって良い。お年寄りが頑張っているのを応援したい。昔から僕は「お年寄りに好かれる」と人からよく言われてきた。同年輩や若い人からはさっぱりだがご年輩の人から可愛がられるところがある。「吉兆屋、頑張れ!」「女将さん頑張れ」と僕は叫んだのである。