2010年10月3日日曜日

10月3日(日)遍路行三日目

後半三日目(通算二十四日目)
平成18年10月3日(火)   とうべやの狸

 発心の道場が阿波徳島で修行の道場が土佐の高知。ここ伊予の愛媛は涅槃の道場と言われているが前回の阿波・土佐の二国打ちに比べて楽なのである。遍路ころがしなどという難所もない。歩き遍路に慣れてきたと言うこともあるがとにかく体が軽く、歩くことと見知らぬ人との出会い、それに他国の風景に心を奪われるのである。愛媛は面白い。

① 三好旅館、6時30分朝食、支払い8050円。7時出発。女将さんのお見送りを受ける。元々の計画は本日は41番龍光寺前の民宿「稲荷」投宿の予定であったが昨夜旅程を精査し、二日目が調子良かった分、出来れば今日は42番佛木寺まで打つことが明日以降の円滑な遂行に繋がると考え僕は予定を変更した。民宿「稲荷」には申し訳なかったが昨夜中に電話を入れて予約キャンセルをした。そしてガイドブックから新たに42番先の民宿「とうべや」に予約を入れた。訳の分からない名前だ。何回電話しても出なくて困ったが夜遅くなってようやく繋がった。従ってどうしても今日は「とうべや」まで歩き通さねばならない。気合が入る3日目である。これでも4日目は36キロを越える長丁場の歩きになる。前半の山場がもう来ているのだ。


② 今日は宇和島市を通る。出来れば宇和島市内を高知の時と同じように味わいたいとの希望もあり、当然歩きのピッチは上がる。最初の関門「松尾トンネル」である。有名なトンエルだ。1700mを超える四国最長の長さを誇るトンネルである。旧国道もあるのだが、今日は時間を大切にと考え、トンネルルートとした。しかし1700mのトンネルはいささか怖い。爆音、風音、自動車のライト、引きこまれそうになるくらい気味が悪い。歩道の幅も改善されたというが狭いことには変わらず、車道との境界などもない。大型トラックは体の横をバーンと抜けて行く迫力である。大体日本のトンネルはすべて車の為にあり、歩行者のことなど一切考えていないのだ。


③ 先に出発した僕であったが松尾トンネルの出側で昨夜の70歳のお方に追いつかれた。歩くのが早い。確かに軽装である。驚いたが荷物は旅行用の車つきのトランクみたいなものを手で引いているのだ。空港のロビーを歩いているような感じで荷物を引っ張って歩き遍路をしている。アイデアだなと感心した。階段などはひょいと持ち上げるのだろう。重いリュックなど背中にはない。ひとしきりお話した後、先に行って貰った。後姿には笑ってしまった。


④ 11時宇和島目抜き通りに入る。宇和島城に向かう。昔から建設当時の物が残存している名城である。伊達政宗の長男宗春が移封された宇和島10万石の町を見るにはお城に登るのが手っ取り早い。その後は自分へのご褒美と考え、宇和島のジャコ天と鯛めしをお昼にがつがつ食するのだ。


 
⑤ 宇和島城、期待とおりの良いお城であった。なんと天守閣で、昨夜岩松で別れた25歳のフリーターの青年に会う。ここではじめて名乗り合う。松尾坂内君(仮名)という。嬉しくて昼食をご馳走することにした。しかし今日は火曜日、有名な門屋、丸水という料理屋さんは休みで、二人で探しまわり、「いずみや」という小料理屋を見つけ、やっと「鯛めし」を食す。お客は婦人ばかりでこういうところは旨いし値段も手頃なんだろう。鯛めし、初めて食べる料理であった。新鮮な鯛の刺身をだし汁、溶き卵に入れ、刻みのりと青もの野菜の刻みなどでかき混ぜ、熱々のご飯の上にぶっかけて食べるのが此処の鯛めしである。予想と完全に異なる料理であったが確かに旨かった。普通は鯛の身をほぐしたものの炊き込みご飯と想像しないか。松尾君は「旨い、旨い。」とご飯を何回も追加して食べていた。
⑥ 12時30分、市内を終えて41番に向かう。距離は残り11キロ。3時頃に着けば良い。56号線から離れ、北上する57号線に入り、北に向かって歩く。道は緩やかな勾配で上り道、三間町に入る。予約をキャンセルした民宿「稲荷」の前を通り、15時15分に「41番稲荷山龍光寺」を打つ。龍光寺から42番「一璅山佛木寺」(いっかざんぶつもくじ)は2.6キロと近い。16時、佛木寺を打つ。佛木寺は好きなお寺さんである。ご詠歌が良い。

 ⑦ 16時45分、民宿「とうべや」に投宿。ご主人が玄関で待っていてくれた。まだ新しい民宿である。怖い感じのお顔で頭に斜めにタオル鉢巻をしているのだ。ここでも又昨夜三好旅館で一緒になった70歳の荻窪の方と同じになる。そこに背の高いアメリカ人が入ってきた。今日は外人含みの3人である。宿はおじさん一人で全く女性の匂いがしない。一体料理などどうなっているのか。このことは後ほど判明する。


⑧ とうべやのご主人、元々の家業は農家、お米を作っている。8年前に民宿を始めた。女房は死んだ。子供はいない。一人でやっている。自分が死んだ後は近所の若いやつがやりたいと言っている。このようにして人と知り合える民宿は良いと思って始めた。米は腐るほどある。確かに旨い米だった。着いてから一向に料理などしている気配もなく、時間になればちゃんとしたお皿や鉢に料理が盛られ出てくるので、僕は聞かなくても良いのに「これらは近くの親戚ででも・・」と聞くと「今頃はまとめて一切作ってくれ、仕出しをしてくれるところがあるのだよ。」と。「自分が作るのはお米を炊くだけ、ビールを出すだけ。」とあっけらかんと。面白い。最初はとっつきにくかったが、話しているうちに極めて良い人であることが分かる。ご飯がてんこ盛りで出てくる。本当に山盛りになって出てくるのだ。


⑨ 外人はどうも日本料理が多く出されると困るらしい。「多いです!」と片言で叫ぶ。おじさん悠然と応えて「残しておいて。狸が食べるから。」と。勿論外人は何を言っているか、理解できず、70歳のおじいさんは僕に「狸は英語でなんと言うの?」と聞かれるが僕もとっさのことで答えられない。残飯整理に狸がすべてやってくれるから、食べ物の残しは一向に苦にならないらしい。「嘘だと思うなら、外を見ろ。」というので外人含みの3人が食堂の窓を開けて見るとなんとそこには6匹の野生の狸が闇夜に目を光らせて僕らを見ているではないか。「家族だ」とおじさんは言う。僕はあわててカメラを部屋に取りに行き写真を撮った。確かに狸が写っている。驚いた。おじさんは残飯をボールに入れ、外に出て狸に持っていってやる。狸は逃げない。明日の朝も食べに来るとのこと。「エー!」と僕は驚いた。ここは狸に囲まれた民宿なのである。こんな民宿初めてである。
            草も木も仏になれる佛木寺 なおたのもしき鬼畜人天

⑩ 食事を済ませたらおじさんはすぐ寝た。客はほったらかしで僕はのどが渇いたがお茶など何処にもない。我慢するしかない。しかし面白い民宿である。おじさんのお年を聞くと答えずに「皇后様と同じだよ。」と答える。これも又面白い。何歳だと答えれば良いのにこういう答え方をする。皇后様は何歳にお成りか?誰も知らない。しかし親切で、「明日の昼に握り飯がいるのなら作ってやるよ」というので日本人二人は「要ります、要ります。いります。助かります。」と答える。おじさん曰く、「最近若い女性に作ってやろうとしたら、重たいから要らない。」と言われたらしい。あれ以来聞くようにしているらしい。この話も面白いと思わないか。


⑪ 「とうべや」の意味を僕は尋ねた。とにかく知りたいのだ。悪い性格だね。おじさんは以下のように説明した。この辺では古い家で元々の屋号が「籐兵衛」。この民宿を始めるときこれを使って「藤兵衛屋・・・とうべや」になったという。僕は笑ってしまった。もう一度来る事があったら絶対とうべやに留まることを僕は決めたのである。外人一人、日本人のおじさん二人、それに鉢巻姿のご主人、狸6匹、NTTドコモのフォーマの携帯が圏外と表示する中部伊予の夜はこのようにして更けていった。