2010年10月4日月曜日

10月4日(月)遍路行 後半四日目

後半四日目(通算二十五日目)
平成18年10月4日(木)  歩き遍路のメッカ「十夜ヶ橋」目指して

  伊予の歩き遍路も4日目になった。極めて順調であり、快調である。前回8月のペースに比べ幾分早い感じがする。愛媛県は高知県に比べ案内標識なども行政の意思が感じられ整備が進んでいる。思い出深かった民宿「とうべやの狸」とお別れして次の目的地、四十三番明石寺を打ち、その後出来るだけ脚を伸ばし、大洲の有名な番外霊場第八番札所「十夜ヶ橋」(とよがばし)を目指す。ここは歩き遍路の聖地である。



 ① 民宿「とうべや」の話はまだ続く。外人の話はまだ書いていない。昨夜はあまり親しみの持てない感じであったが今朝は完全に明るい僕の好きなアメリカ人に戻っている。「昨日は参った。皆との話にも乗れず、申し訳なかった。」と謝るのだ。こちらはまったく気にしていないのに。こういうところに人物を見ます。叔父さんなどは全く気になどするわけがないのに。


② 僕から「消耗していましたね。」と聞くと、「I was. 」と。余程疲れていたのだと思う。今朝は僕の隣で日本の朝食を一生懸命食べている。ノースキャロライナ出身、日本IBMに勤務していた?奥さんは日本人、去年日本の友人に連れられて初めてお遍路に出た。今年は今まで待ったがその友人の調子が悪く、今回は自分だけで来た。自分とその友人の為に歩く。前回39番まで打ったので今回は40番から始めている。(僕とまったく同じ)大きな男でハンサム、半ズボン姿でお杖を持っているが菅笠はさすがに持っていなかった。そうなんです。最近では外人のお遍路さんをよく見掛けるのである。


③ この外人、僕に「宿の親父さんに、41番まで車で送ってくれるよう頼んでくれ。」と言う。宿到着が遅くなるので昨日は41番,42番の札所を飛ばして宿に直接入ったというのだ。勿論親父さん、「問題ない」と言い、英語を使い、「OK,OK」と言いながら、最近は外人も増えて来て、この前はフランス人だったと機嫌がとても良かったのである。


④ 5時50分からの朝飯は親父さんの手作り、旨いんだ、これが。味噌汁もご飯も男の作る朝食も捨てたものではない。ちゃんと名産「ジャコ天」も付いており、目玉焼き、具沢山の汁、かまぼこ、味つけのり、お豆腐、野菜、香の物、ハム2枚、デザートにぶどう、とにかく見た目もきれいだし味も良い。当然ご飯は夕べと同じくてんこ盛り。圧巻は昼食用のおにぎり、梅干を入れて軽く表面を焼くのだ。焼きおにぎりとなる。まさに男の料理を超えている。加えて大きなおにぎり2個に牛乳ワンパック(小)みかん2個、お饅頭一個、これがお土産だからすごいよな。嬉しい限りだ。支払い7150円。6時15分出発。


⑤ 叔父さんの言ったとおり、狸が見送ってくれる。叔父さんを見たら逃げないのだ。僕の方にも寄ってきた。昨夜は真っ暗で目だけが光っていたが今朝はすべて見える。きれいな狸だ。叔父さんから道順を聞いて別れる。ところが歩いて10分、頂いた弁当を忘れたことに気づき、走って戻る。「叔父さーん!」。遂に言われました。「ひょうきんなんだな。」一本取られたわけです。


⑥ 宿からすぐに、これまた遍路社会では有名な「歯長峠」に入る。1昨日「柏坂越え」を経験しているので、新道トンネルルートでも良かったし、叔父さんも勧めてくれたが結論を言えば、道を間違えて山道ルートに入ってしまった。本には「鎖場ルート」とも書いているくらい急峻な道である。鎖場とは通常のロープでは間に合わなくて鉄の鎖が引いてあって、それを握りながら登っていく場所を言うそうです。勉強しました。本当に厳しかった。3回僕は滑って転んだ。くだりが特に厳しかった。あれはもう道とは言えない。まだ薄く暗い山道は気持ちも良いものではない。早く、早く抜けたくて焦ると滑って転ぶのだ。ズボンも泥だらけであるが足首などは問題ない。転び方と杖の使い方が重要で結構僕は上手いのだと思う。とにかく1時間少しで歯長峠を越えた。ほっとしたし、自信も湧いてくるがもうこんなところは良いと思った。

⑦ 峠を越えれば後は舗装道路を歩くだけ。ピッチを上げて歩く、歩く。とある家の門のところに座っている老人、「お遍路さんは朝、早いよのう。何処から来なさった?」と戦前まで大阪は門真、天王寺、阿倍野と住んでいた90歳のお爺さんに捕まったりしたが順調に8時50分「四十三番43番源光山明石寺」(あけいしじorめいせきじ)を打つ。境内は歩き遍路が3名、すべて若者であったが、僕より先に打って、休息しているところ。大体、こういうときには決まった言葉があって「今日はどこから、そしてどこまで」が常套語なのです。この3人とは後で又縁があることになる。3人すべて今日の計画は同じことが分かる。考えて見れば当たり前で、脚力、名所などを考えれば同じような計画になるのですね。



⑧ 今日のポイントは「鳥坂峠」です。愛媛には峠が多い。緩やかな登り道が延々と続き、1117メートルの鳥坂隋道を越えれば遂に大洲市になります。だらだらと下り道が長く続き、まず最初に大洲城が見えてくる。美しいお城です。寄り道して見学した。中江藤樹先生がここ大洲で若い頃10年間勉強した旧跡なども残っており、良い雰囲気の町であった。肱川を渡る大洲大橋から眺めるお城をもう一度左側に眺めながら、歩き遍路のメッカ十夜ゲ橋を目指します。時刻は3時30分。しかしまだ4キロもあります。ここからが本当に辛い。どうも僕は目標が遠いと元気が出ますが近いと逆に脚が進まず、午前中の無理がたたって疲労困憊で街中をふらふらと歩きます。本当に体が左右に揺れて歩いています。調子が良いからと後半戦の三日間の無理が祟っているのだと思う。



⑨ 16時30分、遂に「十夜ヶ橋」(別名永徳寺)を打つ。番外霊場で遍路世界では超有名なスポットである。納経所は5時締め切りと書いているから駆け込むようにしてぎりぎり間に合ったのである。今日宿泊する予定のホテルの前を通り過ぎてとにかく札所まで急いだ。近くに来ると案の上、大型観光バスが数台停まっているのが目に入り、団体遍路の人々が多く参っておられた。
 ⑩ 一夜の宿にありつけなったお大師様は泣きべそをかいて、橋の下に野宿をされたと言う。一夜が十夜に感じると泣いておられるところだと言われている。これ以来、お杖は絶対橋の上では路面を突いてはいけないとされるようになったと言う。お大師様がよく眠れないからという理由である。僕もいまや体が覚えており、橋の上に差し掛かると金剛杖はひょいと持ち上げ横もちにして杖の先で橋を突かないようになった。ここには「通夜堂」が整備されており、野宿遍路はここを狙って予定を組むのである。歩き遍路、野宿遍路のメッカと言われる所以である。

⑪ 宿は計画とおり、オオズプラザホテルで、札所から300メートル戻る道沿いにあり、一階にトンカツ屋レストラン、隣がローソン、その隣がコインランドリーととても便利な場所で嬉しかったのである。宿の料理にも少し飽きてきたと思っていただけに丁度良いタイミングであった。ホテルの良いのはすべて自分のペースで進めることが出来ること、食べたいものを食べられること、朝風呂に入れることである。遍路には10%割引きがあり、翌朝の食事はフレッシュジュース、コーヒー、ロールパン、トースト、バナナがサービスでついているらしく時にホテルも悪くないのである。


⑫ なんと明石寺であった若者3人ともこのホテルで邂逅した。彼らは食品をローソンでせっせと買い込んでいた。いわゆる持込みである。例の松尾君は別で十夜ガ橋の通夜堂で停まり、別の3人の若者は一流ホテルだから、若者と言っても本当に格差がある。ただこの3人、明石寺でもそうであったが、ヘビースモーカーでよくタバコを吸っていました。一人の若者は笑うと口の中が見えて歯茎の隙間は黒光りしていた。どうでも良いことだが、せっかくの歩き遍路の機会なのだからこの際タバコを止めれば良いのにと思った。僕は30代の終わりできっぱり止め、以来冗談でも一本も吸っていません。


⑬ ここで僕のタバコ論を。健康維持、がん防止などどうでも良い。要は格好良いかどうかの判断でよいと思っている。今やタバコを吸う姿は男として格好悪いと僕は思う。傍に寄れば「ぷーん」と臭いし、もはや清潔感を与えない。石原裕次郎の時代はもう終わったのではないか。少なくともタバコをくねらしている姿が格好良い時代ではなくなったと僕は判断した。タバコを飲むきっかけは、大人になりたい、くわえタバコなど格好良いと思ったからだが、ニューヨークに勤務してもう格好悪い、我慢強さのない,耐力の低い知性教養の低レベルを示すのではないかと考え、成田空港に降りた瞬間、すべてのタバコを捨てた。1983年9月のことであった。