2010年10月7日木曜日

10月7日(木)遍路行 後半七日目

七日目(通算二十八日目)
10月7日(土) 遍路行   伊予路を松山に向かって



 遂に三坂峠を越えて松山市に近づく日となった。ここを越えれば南予と離れて中予となるのか。明々後日の松山道後、夏目漱石「坊ちゃん」の世界と道後温泉が近くになって来た。今日はその前哨戦だ。今日も頑張る。

① 国民宿舎というのは、サービスは今一つだが、それが分かっているから文句は出ない。あれだけ人を雇っていたらコストもかかる。家族だけで経営している民宿とはどだい違う話である。昨夜の夕食も朝食もスタイルが全然違う。それに朝は7時からとか、考え方が根本的になっていない。歩き遍路は1時間でも早く出発したいのだが、そういう配慮はない。サービスの精神はないのだ。役人の経営する雰囲気です。ただべちゃべちゃしていないからその分気は楽なことと風呂の自由さはある。一長一短で色々と味わえば良いのである。でもやはりお遍路には遍路宿、すなわち現代流に言えば民宿があっている感じですね。僕は民宿ファンです。「何?結構ホテルを使ってるじゃん!」ですって。


② 7時30分出発、8405円。折角内子町から二日にかけて拾い集めた栗の実も朝、写真を撮った。もう必要はないがそのまま捨てるには忍びない。誰かが貰って呉れれば有難い。売店でお土産を買っていたご夫人に「お車ですか?」と聞き、貰って頂いた。栗も喜んでいるだろう。45番まで打ち戻る。距離は10キロ、気持ちの良い道ですが、どうも天気がすっきりしない。今にも降って来そうです。この間は多くの歩き遍路に会います。来る人,打ち戻る人、団体バスが多くのおばさん遍路を載せて来ます。僕は寿の字の入った杖カバーを握り締めて歩きます。良い雰囲気です。
③ 実は今回、デジタルウォークマンに500曲の演歌、歌謡曲,ご詠歌などを入れてポシェットに入れています。1Gの容量で、100円ライターの大きさです。初めてイヤフォンで聞きながら歩きました。実は出発前に吉水流のご詠歌のCDを作ったのであるが、独特のご詠歌のリズムに合わせて体が揺れます。躁に近い状態になります。金剛杖で調子をとって道をジグザグに歩いたりして僕は機嫌よく歩くのである。


④ 今日は朝から嬉しいことがありました。昨日うどんを食べた物産館「みどりや」で小休止の場所の提供とお水のお接待を受けました。大宝寺先の道路端でりんごを売っているお店があり、僕は少し驚いた。りんごは長野とか東北地方なのではないのか。そうなのである。この辺りは栗,梨、桃、それにりんごまで成るのです。四国で初めてなるりんごを見ました。一個お昼用に買おうかなと考えていたら、おばさんが手招きして「お遍路さん、まだ味は今一歩で少し早いが一個食べて。」と言って僕にくれるというのです。本日2回目のお接待です。今日からお店を出し、最初に見たのが僕だというのです。嬉しかったなー。又おばさんでした。今まで叔父さんからお接待されたことはありません。
⑤ 12号線は33号線に突き当たります。右に行けば松山、左に行けば高知、伊予路です。右折します。ところが雨は強くなってきました。もう我慢ができません。バス会社の軒先を借りて雨具に急いで着替えです。仕方がありません。完全武装で又33号線を歩きます。松山に至る関門,三坂峠を目指します。有名な峠です。連れはだれも居ません。音楽を聴きながら歩きます。時々涙がにじむくらい僕は流行歌や演歌、歌謡曲に感情移入します。美空ひばりなど聴くともう駄目です。大好きです。天童よしみ、都はるみ、北島三郎、田端義夫、声が良くて上手い人が好きです。又僕は歌詞をとても大切にしています。歌はまず歌詞です。それに曲、最後が歌い手の技量です。昔僕は校長室で朝早くから演歌を聴いています。勿論脳の半分は思索を深めています。演歌を聴きながら考えると良い考えが浮かびます。


⑥ 途中から一人のお遍路の背中が見えるようになりました。本当に少しずつしか追いつけませんが背中が見えるようになったということは僕のほうが少し早いということです。時間はかかりましたが遂に並びました。良い感じの男性です。46番浄瑠璃寺まで一緒に歩くことになります。


⑦ 上りの国道33号、遂に三坂峠の頂きに着きました。峠に小店があります。おばあさんがお餅を七論で焼いていました。手招きされなんと焼きたての蓬餅を二人に一個ずつくれました。時間は11時過ぎ,おいしかったです。まさか売り物の焼餅を90歳近いおばあさんから頂くとは。愛媛はよいところだなと我々は感激しました。「ここから道は33号線から離れて三坂峠の下り道を遍路道に変えます。いわゆる古来からの伊予路です。近道だし、この道が46番浄瑠璃寺に繋がっているのです。ここは歩き遍路であれば誰でも通る道です。厳しい道だと言われていますが、僕には普通でした。でも何か江戸時代の匂いがする感じの道路でした。歩きながら連れになった男性から話しを聞くことになります。

⑧ 男性、33歳、神戸市北区、立命館卒、今回で満願、前回44,45,46番は車を使ったので、やはり完全に歩いてと思って再度来た。動機は色々なことがあった、人間関係で思い悩み遍路に、3年目。最初は野田阪神、次にジャスコイオン、すべて転職し、今は小さな薬剤会社に勤務。独り身で母と暮らしている。8歳で父が蒸発。母は父に捨てられ(彼の表現)僕と弟、3人で苦労した。母には言葉に言えないくらい苦労かけた。父の居ない僕はぐれて家庭内暴力で迷惑もかけた。3年前、その父の消息がある人から知らされた。重病でもう長く持たないという。弟は無視したが僕は病院で最後を看取ってあげた。「木村さん、男は何か、父親に特別な思いが歳を取るにつれて湧いてくるものですか」この3年、さまざまなことが湧いて起こり、会社も辞め、人生のリセットです。東京に付き合っている女性がいます。25歳、でもどうも上手く行っていません。僕が長男で母と一緒に住むことを気にしています。僕は最終的には税理士の資格を取りたくて勉強しています。今回遍路で色々な人たち、世代の方々とお話をしてかけがえのない勉強をしました。遍路経験は本当に良かった。自分を見つめ、自分の本質が分かったような気がします。人生、頑張りたいと思います。


⑨ 僕が彼に何を言い、何を聞いたか、書くまい。でも良い男だった。人生の応援歌を贈った。彼はじっくりと聞いてくれていた。浄瑠璃寺できつく握手をして別れた。名前を「竹田君」と言う。頑張れ竹田君!

坂道も少し広いと歩きやすいし、連れがいると時間と辛さ、苦しさが軽減されます。人生やはり共に歩く連れがいる方が良いのです。坂道にこのような看板がありました。


     「むごいもんどや、久谷馬子は、ヨ―三坂夜出て朝戻る イヤーハイハイ」


⑩ それほど厳しい峠越えで伊予から土佐に出る「塩街道」だったのですね。明治33年に33号線が出来るまでは、伊予路の中で最大の難所だったと書いています。武田君は僕が手帳に書き写したりしているのを興味を持って見ながら、感心していました。


⑪ 今日は良い話がまだまだあった。きつい下り坂の最後にまさに江戸時代にタイムスリップしたような建物があります。『さかもとや』という昔の遍路宿、茶店です。それを今遍路接待所に改造して使っているのです。本当にすごい建物でした。持ち主の坂本さん、「昔のままです。」先に到着している顔見知りの歩き遍路の3人がお茶を頂いていました。近々NHKが取材に来るという話でした。二階にも上がってみましたが二階の軒下から真じかに見える街道筋というのでしょうか、道は味があります。どれだけ多くの人が荷物を背負い、苦楽を背負ってこの道を歩いたのでしょうか、2階からどれだけ多くの人が道行く人々を眺めていたのでしょうか。感慨が深まります。内子町の内子座といい、四国にはこのような建物がまだ多く残っています。長谷川伸の名作「一本刀土俵入り」の名場面です。2階からお女郎が帯に巾着を繋ぎ、下の道を歩くお腹をすかせた相撲取りに声をかける場面です。新国劇の名場面ですよ。そんな雰囲気になる建物と道です。若い女性遍路に詳しく話して上げました。興奮して聞いていました。全然知らないのですね。
⑫ なにやらピーヒョロ、音楽が聞こえて来ます。所々に祭り幟がたなびいています。雨は完全に上がり、青空が広がり、風は心地よく、山里の秋祭りを祝っています。今日は松山市の統一した秋祭りの日です。桜、坂本,榎、窪野、浄瑠璃、部落単位で揃いの半被で男衆が神輿を車に乗せて(車です)練りまわしています。担ぎ衆が居ないから車に神輿を乗せているのです。音曲はすべてテープです。生演奏ではありません。お酒も入っています。次の坂本部落では昔の酒蔵を改造して「大黒座」を復活させる途中ですが、子供たちが子供踊りでにぎわっていました。ここで僕はつかまり、おでん、ビールを無理やり口の中に入れられてしまいました。
⑬ 14時30分、浄瑠璃寺門前の「長珍屋」に到着。荷物を預けて1分のところにある、46番「浄瑠璃寺」を打つ。引き続いて800メートルしか離れていない47番「八坂寺」を連続して打つ。部落の公民館はお寺に隣接し、そこから祭り囃子が有線放送の大音声で流れています。般若心経を唱えながら耳には三橋美智也が歌う『松山祭り音頭』が入ってくるのです。良い雰囲気でしょう。

            わっしょい、わっしょい 粋なあの娘の湯上り姿
            好きな半被を見やしゃんせ ピーヒョロ、ピーヒョロ

何か心豊かになった一日でした。

⑭ 「長珍屋」、前評判は必ずしもと言う感じでしたが、決して悪くありません。僕は評価します。ただとにかくマンモス旅館です。このような大きな旅館は阿波、土佐を含めて初めてです。大きいから個人遍路は細やかさにかけると言いたいのでしょう。団体がドカーと入ってきます。夕食は今まで一人かせいぜい3人くらいでしたが今日は大広間で100人を超えていたでしょう。迫力がありましたよ。大女将は90歳でまだ健在でフロントに座ってどっしりと構えています。それに女将の娘3人が働いています。長女は嫁に行き、別館を手伝っています。三女も近くに嫁に行き、本館を手伝っています。次女だけが独り身で婿取り待ち、この人が将来の女将です。お母さんにそっくりの優しい感じの小柄の女性でした。早く良いお婿さんが決まれば良いのに。


⑮ 面白いのは大女将の話でした。嫁に来たときに祖母から聞いた話として宿銭は1円50銭と聞いた、4代続く旅館である。恐らく想像するに伊予路で有名な旅館だったのだと思う。とにかく私は働いた。旅館はご飯を腹いっぱい食べて貰わなければならない。米も作っており、お金が出来れば田んぼを買っていった。大根をどれだけ桶に漬け込んだことか。(何桶か、忘れました)私は旅館,野仕事、働き詰めだった。舅が寝込んで3年、横に寝て下の世話までした。死ぬときに舅は「手を合わせて、主人に礼を言っていた」と大笑いするのです。「私への礼ではなくて主人に言うのです。」と。僕も笑ってしまいました。面白い話でしょう。僕はお年寄りからこのような話を聞きだすのが上手い。


⑯ 伊予路の明日は漱石「坊ちゃん」の世界です。道後温泉に入るぞ。昔両親と共に行ったことのある道後温泉です。遂に松山市の郊外にまで来ました。これからは歩く方向は歩く度に大阪に近づいて行くことになります。A4版4枚もの日記になってしまったがこれでも書き足りないくらいです。三坂峠越えは本当に思い出深いものになりました。