2010年3月31日水曜日

3月31日(水)年度最終日
















・ 芭蕉の「奥の細道」の冒頭の有名な文は「月日は百代の過客にして行き交う年も又旅人なり」であったと思うが、学校と言うのは特にそのように感じる。私は、その昔「学校は行事消化型社会」と揶揄気味に表現したが、「とにかく学校は行事」である。行事をこなしながら年が変わっていくのである。
・ 「すごろく」と同じでもとの振り出しに戻り、又一から始まるのである。即ち「学校は回っている」と感じる。ところがだ。これは学校と言うハードと教職員の話であって、生徒は「ただ前に進んでいくだけ」なのである。
・ 「生徒は入学から卒業までただひたすらに前に向かって一直線」である。しかし学校という器れ物と教職員は「365日を行事と共にグルグル回っている」のである。ここが学校社会の面白いところである。
・ 今日は「年度最終日」となった。すごろくの「上がりの日」である。明日からは又新しく行事と共に時が刻まれるのだ。最初の行事はそれにしても1年は早い。「良い1年」だったと思う。しみじみと「幸せ」を感じる。
・ こういう節目の時になると私は「教職員がいとおしくなる。」大変良く頑張ってくれたと思う。丁度丸々3年が過ぎた。途中で「戦線を離脱」した先生方もいるが、ここまで「歯を食いしばって私に付いて来てくれた教職員が私の財産」である。
・ 何時まで現役でやれるか分からないが、この年になれば「日一日が今生の別れの一日」としてやっている。だらだらと引きずるような仕事の進め方は性に合わない。今日は理事会の日でもある。来年の「予算決定をする日」でもある。「戦略的な予算」を組んだ。まだまだ「闘っていかねばならない。」
・ この3年間、毎年毎年「新施設や新設備」に投資をしてきた。浪速はソフトだけではなくて「ハードが変わっている」ということがポイントである。実際はソフトの改革の方が何倍も凄いのであるが外部からはそれは見えない。しかしハードはしっかりと生徒や保護者にも見える。
・ 「ソフトの改革は具体的なものを学校にもたらすものでなければ意味は無い」。この3年間、「まず正門の設置」「体育館の改装」「家庭科実習室の設置」「テニスコート3面と人口芝生化」「カフェテラスの設置」そして「多聞尚学館の開設」である。
・ そして明日から始まる22年度は「新武道館」と「多目的校外グラウンド」である。これらは「大型投資」になった。その次は「部室の新設」「養護室の仮設移動」が来る。その後は本校のグラウンドの「人口芝生化」だろう。そして「本丸の新校舎」である。
・ とにかく「守りに入ったらお仕舞い」である。とにかく「新校舎建設までは戦いの連続」である。戦いとは「自己との戦い」である。怠惰に流されること無く「良い仕事をする」ということである。教職員にもそれぞれが「一隅を照らす」良い仕事をして欲しいのである。
・ 今日の時程は以下のようなものだった。
* 8時 辞令交付                          出席
* 8時50分 成績優秀者に対して保護者もお呼びし、「宝来賞」を授与。 出席
* 9時    教科会議
* 9時20分 校内イントラネット研修
* 9時30分 旧学年会議
10時30分 職員会議              出席
* 11時30分 新科・類・コース会議
* 14時   時間割作成作業
* 15時   保護者連絡メールシステム講習会
15時   理事会・評議員会                    出席
* 18時30分   送別会食会(難波にて)                 出席

・ 職員会議の始まる前にH教諭の送別が行われた。詳細は3月21日のブログ「侍教師」にすべて書いてある。私はこの席でも心から「感謝の意」を捧げた。先生は声を詰まされて、最初はご挨拶の言葉にならなかったのである。
・ 私はお帰りの車を用意してご自宅までお送りする手はずを整えた。私は職員会議で全教職員に言ったのである。「辞める時はこのような形で無ければならない。羨ましい限りだ」と。
・ 今日は時間との勝負であった。最大の私の仕事は理事会評議員会を「総理して」中味の濃い良い理事会や評議員会にしなければならないことが最大の責任である。資料は見事なものが出来ている。議題数は21項目でページ数は40ページである。
・ 理事長は対外的には学校法人の業務について「学校法人を代表」し、体内的には学校法人内部の業務を「総理する」となっており、「私立学校法」は理事長の職務を厳格に規定している。まず「理事会を招集し議長」となることが最初である。
・ 「理事会は学校法人の最高議決機関」である。改正私立学校法は法人の業務は理事会で決するとしたので理事長の日常の業務の決定については理事会から理事長に包括的に委任を受けた形である。
・ 特に本校の場合は理事3役、即ち名誉理事長、理事長職務代理と理事長との3人で日常業務を回転しているのが実態である。「常任理事会」である。私は更に「評議員会を招集し議案を提出して意見を聞く」ことが求められている。
・ 特に「決算報告は重要」で評議員に意見を求めなければならない。本日の理事会・評議員会は過去最高の出席率であった。総勢26名の出席を得ての大会議であった。従って場所は職員会議に使う「視聴覚教室」を使わざるを得なかったのである。
・ 採用された9人の専任候補者はまず理事会評議員会の前に名誉理事長に面談して頂く機会を頂いた。まあ「顔合わせ」である。選任に当たってはすでに理事長職務代理に面接して頂いており全く問題は無い。
・ 理事会の冒頭「人事異動の紹介」を全理事と評議員に対して行った。管理職登用と専任教諭に採用された先生方の経歴を簡単に紹介してお一人ずつ簡単な挨拶を頂いたのである。言って見れば今日以降大阪府神社庁の方々と「お仲間、身内」になったのだからどのような人物か見ていただくのである。又事務長職務代理として近畿大阪銀行からキャリアの人を出向扱いで来て頂くことになったから、この方の紹介も必要であった。
・ しかし今日のハイライトは「手作りの神道科の教科書を完成」させたことである。出席者からもお褒めの言葉があった。足掛け3年、ここまで持ってきてくれた神道科の主任、M教諭の大きな実績である。今後手直しを加え「更に中身を充実させより良いもの」としなければならない。生徒には原価の半額500円で頒布することとした。
・ 見事に会議は終了し22年度予算が決定された。理事や評議員の先生、名誉理事長や職務代理から「身に余るお褒めの言葉」を頂いたのである。関西大学の理事からは「もっともっと頑張って欲しい」と激励を受けたのである。私はその意味が十分分かる。理事の摂津市長からは改革は市政に通jずるものがあり、冗談であるが「市長になって欲しい」とまで言われた。
・ 会議が終了したあと、H教諭の送別の宴会場に飛び出して行った。帰宅は21時過ぎ。充実した一日となったのである。私の「すごろく」はこうして上がった。明日は又「振り出し」である。校長4年目に入る。頑張っていかねばならない。

2010年3月30日火曜日

3月30日(火)関西大学連携浪速中学校











・ 中学校の職員室の「模様替え」をしている。中学教頭も替わり、新しい先生も入ってくるし、何より4月からは「関西大学連携浪速中学校」として新たにスタートするから「気分一新」として私から指示したものである。
・ 朝方「正門に新しい表札」を取り付け、それには白い布で覆って明日の理事会の前に全理事や評議員に披露する予定で進んでいたが「手違い」があって今日には出来ないことになった。「仕事の進め方が甘い」。まあ4月6日の入学式に間に合えば良かろう。
・ 中学校が入っている建物は「新館」と言って本校では最も新しい校舎である。しかし暦年の使用でペンキがはがれたりしている部分が目立ってきたので「塗装」もしている。「化粧直し」である。
・ 昨日は「多聞尚学館からアップライトピアノ」も運ばれてきた。元もと旧多聞小学校の備品であったが購入時に付属物として入手したものである。外観も中味もまだ十分使えると言うことで本校で使うことにしたものである。旧多聞小学校の関係者もこのピアノが浪速中学校で息を吹き返すのだから喜んで頂けるだろう。
・ 「4月からは高校にも音楽の教科が誕生」する。それでもう一台ピアノを必要としたのである。従来の技術室を音楽の授業も出きるように改造した。これで2部屋音楽の授業が出来る部屋が出来たことになる。
・ 従来の「高校の芸術選択は美術オンリー」であったものに「新たに音楽選択を加えた」ものである。元来は「書道」もあるべきであるが残念ながら書道室がどうしても取れないから、これは新校舎建設後になろう。
・ 評議員会でも神社神道の学校だから「書道を考えるべき」とのご意見を頂いているのだが何しろ部屋が無いのである。仕方が無い。芸術選択で言えば当初は新高校1年生の希望調査では音楽が多いと踏んでいたが結果は我々の予想を覆して美術6対音楽4であった。
・ その理由としてまだ女生徒比率が32%程度で少ないのと男子生徒は「声を出して歌うのが恥ずかしいのとちゃうか」との意見に落着いているのである。今日的生徒は軽音楽は好きでも高校授業の音楽は少し引いているのかなと思う。
・ 中学校職員室には18名の先生が詰めて合計9クラスの面倒を見てもらうことになる。機能的な使いやすい明るい部屋が良いと思う。今まではパソコンの配線はいわゆる「たこの足」配線で床を走り回っていたから今度良い機会と思って「フリーアクセス」方式として床をかさ上げした。
・ これなら縦横無尽に個人パソコンや共同パソコンが配備されて使えるだろう。とにかく私はこの3年間中学校に応援をしてきた。今後とも中学校への支援を惜しまない積りである。中学校は本校の「財産」である。それは「大きな可能性を占めている」からである。
・ 当然高校も重要である。言を待たない。しかし中学は6年間本校に学ぶのである。大きな責任がある。「少子化時代」で今後ますます「私立中学校の未来」は厳しいと思う。それでも中学を廃止する気にはなれない。「虎の子の中学生」である。6年間一貫して教育できる対象である。言い換えれば「浪速一筋」の生徒たちであり、その思いは特別な物がある。
・ 我々は誠意を持って「関西大学連携浪速中学校」を説明し入学して頂く努力を今後とも継続して行う必要がある。これは「絶対的なテーマ」である。ようやく3年間で、この3年と言う短い期間で1学年1クラスが3クラスまで増えてきた。「上昇気流」にあることは間違いない。
・ いささかショッキングな記事が出ていた。3月1日の日経朝刊であるが見出しは「中学受験ブーム沈静化」というものだ。今年の首都圏の様相を示した分析記事なのだが「不況の影響」と「公立一貫校の定員増」で首都圏の私立中学受験者は前年同期より3.5%低減していると報じている。
・ データの提供は森上教育研究所代表の森上氏なのだが私は私立中学受験の「大きなサイクル」に注目する。90年代初頭から90年代末期にかけて中学受験率は急上昇し急降下した。前回の沈静化は「バブルとバブルの崩壊」が主因であったと森上氏は指摘している。これには全く異論はない。
・ ご家庭の可処分所得が減少したから公立に戻っただけの話である。しかし今回の沈静化はどのように見るかである。確かに「リーマンショック」による100年に一度の経済危機が影響したとみることは出来るがこれだけでは説明が出来ないと思うのである。
・ まず大幅な公立中高一貫校の定員増があるのも正しいだろう。しかしこの大幅な定員増でも「私立中学受験者数の低減がこの程度で済んでいるという現実に何かヒント」があるような気がするのである。
・ もう一つは「伸びている私立中学は伸びている」のである。ここがポイントである。即ち「今私立中学で起きつつある現象は今までとは違った新たな視点を有した私立中学志望者層を生み出している」ということではないかと考えるのだ。
・ 大体今までの進路決定の大きな要素と言えば「まず偏差値」であった。即ち偏差値で学校がランク付けされていたが今後の私立中学は単純にこのような考えだけでは生徒を集められないと言うことではないのか。
・ 一つの学校で「様々な生徒を包含し」特徴ある教育を展開する私立中学こそ「強い中学」となるのではないか。このことは従来からの私立中高を単なる学力レベルからだけで見ると言うことではなくて「教育総合力」が問われていると私は受け止めているのである。
・ そして私立中学校がますます「ファミリー化」していくのである。しかし考えて見れば私立学校は元来が「私的なもの」とすればその意味は分かるのである。正直言って私立中学の今後は全く読めないが、言えることは「特徴ある魅力的な学校作り」をしていくかどうかにかかっていることだけは間違いない。
・ 4月から浪速中学校の生徒にも「多聞尚学館での宿泊合宿」をやるよう強く奨めた。又ファミリー化の一環施策で「兄弟姉妹同時在籍のご家庭」には思い切った授業料の減免措置をすることとした。
・ 現実に兄弟3人が本校に通学してくれてご家庭もあり感謝に耐えない。3人分の授業料は極めて大きい。このような家庭にいささかなりとも支援するのは当然と考え従来の入学金免除に加えて授業料も「2人目、3人目で相当の減免」を行うことを内定したのである。
・ ありとあらゆる方策を使って平成23年度入学の中学生を確保しなければならない。まだ本年度の入学式も終わっていないのに「何を言うか」という声もあろうが、既に活動は始まっているのである。
・ 対象は小学校6年生、まずお兄ちゃんお姉ちゃんが本校に通学しているなら、まず本校に入学して頂く努力からやらねばならない。学校の良さの一つの証明は「兄弟姉妹の同時在籍の数」からも伺えるのである。本校にはそれが多い。

2010年3月29日月曜日

3月29日(月)多聞尚学館の1年






















・ 朝会で多聞尚学館館長から報告があった。館長とは筆頭副校長である。何と何と開館以来「1年間で利用した生徒数が3685名」という。内中学生が354名、高校生が3331名である。教員数が200名で内中学教員は20名である。
・ この3685名というのは凄い数値で述べ宿泊日数まで先生は計算されていた。多聞の宿泊は代表的な「週末スペシャル」で2泊3日、「長期休業中」は4泊5日、それに「短期」の1泊2日がある。3パターンなのである。
・ これらを当て嵌めて述べ宿泊日数を計算したら「延べ6617泊」となると言うのである。私はこれらの数値に驚愕すると同時に歓喜した。思い出してみると最初は昨年の丁度今の3月26日から3月30日にかけて4泊5日の春季セミナーが皮切りであった。30日には理事会を多聞で行って内覧会とした。
・ あれから1年経って今丁度このときに114名の生徒が5名の教員と4泊5日で「トップセミナー」をやってくれている。丁度1年間で3685名である。このように立ち上げ1年間で「これほど有効利用されている施設」が身近にあっただろうか。
・ 又この1年、「事故は一切無く」「インフルエンザも発生せず」「食中毒もなく」「地元からの苦情も無く」パーフェクトに来ることが出来た。これは「引率の教員の指導や生徒の自覚」もあったと思うが紛うことなく「この施設の素晴らしさ」を証明しているのだと思う。
・ それくらい多聞尚学館は本校の生徒と教員に「衝撃的メリット」をもたらしたものである。それは「何時でも好きなように使える施設」という「有難味」ではないか。「我々はこのような施設がある」という「誇り」ではないのか。
・ 私は今更ながらこの施設に導いて頂いた「目に見え無き、大いなるもの」に感謝せざるを得ないのである。これは間違いなく「学院神社の神様のお導き」以外にはあるまいと考えるのである。
・ 多聞は単に外部宿泊機関に支払う金銭の合理化が目的ではない。確かに1泊で3食付けば民間の宿泊設備では最低でも1.2万円程度は必要だから、「この1年で8000万円の外部流失を抑えることが出来た」。これは極めて大きな効果である。
・ しかしメリットは金銭ではなくて「多聞で真剣に学習するという意識」が生徒に植えついたことである。芽生えたことである。これが「財産」となった。「多聞では学習するんだ」という意識が生徒に根付いたことが大きいし嬉しい。
・ 遠足や仲間との旅行感覚ではなくて多聞では「朝早くから夜遅くまで勉強する」という「浪速文化」が出来上がったことが大きい。このことを私は1年の目的としたが見事に完成したと思う。
・ これはまず「引率の先生方の意識と頑張り」がある。私はこれらの先生方に「多聞特別加算」として手厚い講師料を支給した。「兼職兼業を多聞に関しては許す」とした考えからである。これは相当なものだと自負している。私にすれば「あそこまで頑張ってくれている先生方への当然の報酬」である。
・ 又私は基本的に毎回多聞に「トンボ帰りでも激励に行き」、生徒と先生に「檄を飛ばしてきた」。これらもいささかなりとも「文化の醸成に寄与」していると自負している。造っただけでは駄目でここに「魂を入れる」のはトップの仕事である。学校と多聞をどれくらい往復したことか。
・ そして多聞の「もう一つの成功のポイントはその食事」にある。この1年間河内長野市の「中谷」さんという給食会社が食事の段取りを見事にして頂いたことが大きい。「多聞の食事の評判が良い」ことは生徒のアンケートを見れば一目瞭然である。
・ 「 120名の生徒の朝、昼、晩の3食を温かいもので用意」するのは口で言うほど簡単ではない。朝などは5時過ぎに多聞に来て準備を始めるのである。頭が下がる思いである。今では生徒も顔なじみになったりして片付けなどを手伝っている。

・ 丁度1年の節目であり、前から依頼していた「多聞尚学館への道のり」の由緒書銘版が完成したというのでその取り付けたものを見に行った。平成20年10月16日に私と南坊城理事長職務代理がこの施設を発見したからの経緯を事細かく、記したものである。
・ 今後15年間は多聞尚学館は他に売却できない契約となっている。これをどこかに売却するようではもう浪速もお仕舞いである。後世の浪速の教職員はこの銘板に記した歴史を知らねばならない。そして「何時までも有効に役立てて欲しい」と思って私は作ったのである。

・ 丁度春季セミナーで来ていたN先生は最初からの「多聞尚学館のクリエーター」である。本当に良くやってくれた。もう一人クリエーターがいる。それは今度中学校に移動する英語科のI先生も最初からのメンバーである。
・ この二人は1年前の3月23日に初めてここに二人だけで宿泊し、気温の変化を調べ、風呂に入って3日後に始まるセミナーの事前チェックをしてくれた。あれから1年である。このI先生は本年度から「中学生をウィークデイに多聞に連れてきて学習合宿」をすることを企画してくれている。
・ その他多くの先生が多聞で夜遅くまで又週末を犠牲にして生徒のために頑張ってくれた。又「事務室の職員の功績も大きい」。一人ひとりの生徒の出欠と食事の回数などの会計処理や寝具の手配など見事に対応してくれたからこそ今日があるのである。
・ 「多聞尚学館専属の講師バンクに登録された先生方は大きな名誉」である。多聞で生徒と「真剣勝負」をしたいと思う先生は大歓迎である。ここでは教材の選択と自分の指導法とその効果が一発で分かる。
・ 私は多くのことを浪速高校に残してきたが間違いなくこの「多聞尚学館は特別なものに位置」する。今日も来て思ったことは本校の新校舎が完成した後に「多聞の宿泊棟」を新設しなければならないなということである。何時かはしなければならない。しかしこの歳になると1年は短い。

2010年3月28日日曜日

3月28日(日)吹奏楽部第一回定期演奏会







・ イヤー、「昨日は大失敗をしてしまった。」まだ心が痛む。月曜日には関係の先生と生徒に謝らないといけないなー。本当に大失敗である。最も仕事をさぼって失敗したわけではなくて、しっかりと仕事はしていたのだが、「優先順位」を考えれば間違いなく失敗であった。
・ 昨日、「堺のグラウンド」の工事現場を視察して、その足で「多聞尚学館」に激励に出かけた。グラウンドの方は当に工事の山場で私出なければ誰も決められないことが多く、多聞では「成績優秀層120名の春季セミナー」が行われており、そこにも激励に行かねばならなかったのである。
・ 学校に戻ってきたのが確か3時30分過ぎだったと思う。入試広報室のT副室長が部屋に入ってきて「にこにこ、にやにや」しながら、どちらかといえばニヤニヤに近いのだが「今、吹奏楽部の第1回定期演奏会から帰って来ました。これ写真です。」と言ってCDを渡してくれたのである。その時の私の叫び声は「アッジャー」だったと思う。
・ 前から頼まれ、生徒からも直接案内頂いていたのに「まったく、すっかり失念」していた。T先生から聞かされるまで全く自覚がなかった。「ウーン、これはまずかった」と後悔しても「時既に遅し」で、畳み掛けるようにT先生は「良かったですよ。ウフフ」と言うのである。
・ 吹奏楽部は私が着任して以来「特別強化支援クラブ」として位置づけ、3年経った。このクラブが3年目で初めて「定期演奏会」をしてくれたのである。「素晴しい」ことで私は「絶対、行くぞ!」と約束していたのに完全に忘れていたのである。
・ どうも最近このようなことが目立つようになってきた。前にもこのような場面があった。時に「ポカッ」と記憶が抜けるのである。「ぼけ始めた」のかも知れない。教職員は今後私の予定は事務のIさんにもしっかりと伝え、予定に入れて貰った方が良い。
・ 私からIさんに「予定に入れるよう」言っておくと、朝一番にIさんは「今日の予定と来客は・・・云々」と言ってくれるから確実なものになる。ところが私に直接言っても、それがIさんに伝わらないとこのような事態を招くことがある。私は手帳へも記帳していなかった。
・ それに2週間も前に言われても2週間は長く、記憶が飛んでしまうことがあるから出来れば、前日くらいに「明日は宜しく御願いします」くらいあっても良いのではないか。大体朝会で教頭などからも何の話もなかった。しかし教頭はしっかりと行っていたと聞いた。
・ 私は来週から大きなクラブの行事も朝会で連絡を求めるようにしようと決心した。何か責任転嫁みたいに聞こえるかも知れないが、とにかく「次々と予定が入り」、飛び込みで教員が入って来る。特に「併願戻」が気になっていたし、来週の31日にある理事会・評議員会の段取りなど、脳への血流が奔流しているからこういうことになる。
・ 場所は学校から歩いて15分程度の近くの住吉区民大ホールでこれも私を責める。お客様も多かったと前述のT先生はニヤニヤしながら言っていたな。「プログラム」も立派なものが出来ており、これは恐らく生徒の手作りだろう。
・ その中には顧問団の先生方の挨拶文があった。「さて本校吹奏楽部は長年部員数1~3名程度で小アンサンブルを楽しむ程度の活動しかできておりませんでした。しかしながら平成19年に就任された木村理事長校長が学校改革を進められ、その年度より中学校も共学となったこともあり、「女生徒が部活動で活動することで学校の活性化」という方針のもと、吹奏楽部に特別な支援をして頂きました。そのお陰で部員数も格段に増え始め、学校内の行事だけでなく徐々に地域の行事にも参加・・・」と見事に言い当ててくれている。
・ そうなのである。私は徹底的に吹奏楽部を支援してきたのである。支援というのはどういうことか。ここが木村流である。「口だけ頑張ってだけなら意味はない」。トップの支援とはそういうものではない。
・ 私は年間300万円で3年間継続して「楽器を揃えて」あげたのである。22年度も更に部員数の増とどうしても欲しい楽器があるとのことで今年を一応の区切りとして300万円を計上したのである。顧問団も生徒も大喜びであった。
・ 加えて入学式においてはわざわざ「ブラバンに入ってくれたら楽器を差し上げます」と誤解を招くような言い方で校長自ら加入作戦を展開したのである。それが今や「府内高校生のコンクール」に出場できるまでに成長したのである。
・ あつ、今思い出した。コンクールにもお誘いいただいていたがこれもすっかり忘れて行かなかったのである。重ね重ね申し分けないことをした。まあしかしスポンサーは余り偉そうに顔を出さないほうが生徒は緊張しなくて良いという意見もあるかもしれない。しかしこれは「下手な弁明」である。

・ この「吹奏楽部を指導してくれたのは現在中学校籍のN先生」である。人格温厚にして気配り心配りの出来る人物である。私は高く評価している。一言で言えば「心根の優しい」先生である。
・ 英語の教師であるが元々は音楽大学に進みたいと思っておられたという話をお聞きしたこともある。地域でも音楽活動をされているらしくとにかく作曲もお出来になるし、吹奏楽部の指導者としては格好の人材を私は得ていたのである。
・ 先生の将来のキャリアを考え、私はこのN先生を4月から「高校2年生の学年主任」に異動させる人事を決めてすでに公表している。N先生は4月2日からこの11月に初めて行う「海外修学旅行の責任者としてフランスに下見として旅立つ」。
・ その代わり同じ顧問団の女性の先生である「U常勤講師を専任教諭として採用」し、4月からは中学1年生の担任とした。この先生は社会科の教師であるが教師としても高い才能を有し、吹奏楽の指導には卓越した能力を有しておられるので私もN先生も安心なのである。U先生は一部のコンダクターとして見事に「指揮棒」を振られたと聞いた。お写真では実物より大きく見える。
・ 以上のように最近は「この道一筋」というよりか「複線」として「何かを極める」というのが主流に成って来ていないか。私は大変良く分かるのである。「生業(なりわい)」としての職業の専門性ともう一つ「人生を豊かに彩る複線」がこれらの先生では音楽であり吹奏楽団だったのであろう。
・ とにかく又何時かはブラスバンド部の発表会はあるだろう。そのときは必ず絶対に行かねばならない。しかし気をつけておかないと又失敗するかもしれない。吹奏楽部にはとにかく「大きく、強く、楽しく、仲良く発展して欲しい」と思う。
・ 特別教科クラブはまず吹奏楽部から始まった。次に「雅楽部」も加えた。そして今は「ボーイスカウト団」だがこれは今一つ何をして良いのか分かっていないからもう少し勉強が必要である。
・ 次は「茶道部」である。新武道館には素晴しい「お茶室」が出来る。「雅楽も専用の練習場」が武道館に出来る。特に茶道部は「創部」から始めないといけないから大変だが人材はいる。とにかく頑張って欲しい。
・ 運動部には文句は言わせない。空手、柔道、弓道、剣道には「新武道館」が完成するし、野球、サッカー、ラグビーには専用の「フル規格装備のグラウンド」が完成する。テニスには素晴しい「3面の人工芝コート」が既に出来ている。
・ これらから思えばまだまだブラスバンド部には楽器を揃えてあげても良いかなとも思う。とにかく私は「文武両道の学校つくり」を邁進する。以上はすべて私の時代に手配したものだが、各クラブの指導者は私の「心と投資」に応えて力を付けなければならない。
・ 「部活動は教育の一環」である。遊びではないのである。そして最も教育効果のあることは「試合に勝つこと」であり、「上手くなる」ことである。ここまで貴重なお金を使って成果が出ない、勝てないようでは駄目だ。
・ 教員は「本気になって部活動指導をして欲しい」と思う。そのために私は「スポーツ特待生制度」を一部改めることとした。「きれいごと」など言っておられない。本校は私学であり、「激しい生き残り競争に勝つためには部活動の活性化」は避けては通れないのである。これはこの3年間私立高校で頑張ってきた「私の結論と覚悟」である。

2010年3月27日土曜日

3月27日(土)「月曜スペシャル講座」






















・ 久しぶりに良い天気に恵まれ、10時半過ぎに学校を出て「堺グラウンドの現場視察」を行った。もう「ネット工事が終盤」に差し掛かっており「雰囲気が出てきている。」素晴しいグラウンドになりそうである。
・ この球場の真下の隣地に「リトルリーグ」の野球場があり、ちょうど和歌山と京都のチームが試合をしていた。次の試合は「地元の堺リトルリーグ」が出るそうである。保護者だろうが観客も一杯で今更ながら「野球人気」を痛感させられた。
・ どうも「浪速高校の校長」として又建設中の球場のオーナーとして私の顔は知られているみたいで、次から次とご挨拶されるのには恐縮させられた。コーヒーまで入れて頂いたのである。完成なったら「借用」したいのかも知れない。
・ 私はこの多目的校外グラウンドの「ネーミング」に頭を絞っているのだがどうも良い考えが浮かばないのだ。単に野球場なら「○○スタジアム」で良いのだがサッカー場やラグビー場にも仕える「多目的グラウンド」であるからだ。
・ 「ネーミングは大変重要」である。「名は体を表す」である。その一言から「全体が匂ってくる」ような物が望ましい。本校では多聞尚学館で行う「週末スペシャル」が今や「週スペ」と簡略化されて「学校全体のもの」となっているのである。

・ ところで本校は新年度から「新たなスペシャル」を開始する。ネーミングは色々とあったが、分かり易さ一番で私は「月曜スペシャル」と名づけた。要は「月曜日に何かを特別なことをやる」のである。「筆頭副校長が長年温めていたアイデアの実践化」である。
・ 我々は来年度から「生徒の学力の底上げ」を図るため、「成績不振者の補習」を月曜日放課後に実施することにした。教員が気をつけなければならないことは「ついつい勉強の出来る生徒に目が行く」ということである。
・ これは決して悪いことではなくて「出来る子はもっと伸ばす」ことは極めて重要な学校の責務である。その代わり「遅れている生徒をどうするか」という視点が無いといけない。
・ こういう視点から本校は「月曜日をノー会議デー」と宣言し、「補習をシステムとして始める」こととしたのである。当面は「朝テスト不合格者の再テスト指導」とするが「走りながら修正」していけば良いと考えている。
・ こういう新しいものにチャレンジすると「あれこれ問題点ばかりあげつらう連中」がいるが、やってみて初めて分かることもある。「やる前につべこべ言うな」ということである。
・ とにかく私は「保護者説明会でも入試説明会」でも分かり易い言葉「面倒見のよい学校」を標榜してきているから、これもその一貫である。成績上位者を含めた幅広い生徒のニーズに焦点を当てた指導を全ての教員が生徒に対応することがノー会議デーの目的である。
・ このことを4月から始める「土曜日自由選択講座」と連動させて「浪速では月曜日の放課後は全教員が一丸となって、ひたすら生徒のため、様々な指導に専念 」し、学校の力を高めたいのである。
・ 具体的な内容はまず「朝テスト不合格者の再テスト」として主担は進路指導部が行うのだが、受験は「クラブ活動等すべてに優先」するとした。当然一人が複数教科の再テストを受けなければならない場合も当然あり得る。
・ 実施時間は15:40~とし、必ず作業させてから再テストをさせ、全て合格したものから帰らせることとした。「強制力を持たせなければ」ならない。自主的とか良いことを言うが「生徒は安易に流れる」からである。
・ 次は「自習室の設置」で主担は高校教頭とした。今まで正式な意味で本校は各自が一人で黙々と自学自習できる教室および教員に質問したり友人と共に学習できるような学習室を設けて来なかったがこれからは「視聴覚教室を自学自習教室」とし、選択5教室を学習室とすることにしたのである。
・ 「学習室には各教科の監督」を置き、自学自習教室にも監督を置く。生徒だけでは緊張感も無く効果が半減する。一人で出来る子は別に自学自習室に来なくとも出来るのである。そういう生徒ではなくて、もっと目的意識を持って貰いたい生徒や遅れている生徒を「教員が監督しながら面倒を見る」と言うものである。
・ 手配は教頭が行い、各類から割り当てるようにする。開放時間は15:30~18:00を考えている。「新校舎」には絶対にITやCAIの配備された「自学自習室を設置」する。それまでの辛抱である。
・ 次は「質問受付と個人指導」であり、主担は教科担当者である。日頃、生徒が教員に質問する「時間的余裕」が双方に無いため、「月曜日の放課後に質問時間を設ける」こととしたのである。
・ 教科を問わず、専任教諭および常勤講師は放課後、職員室または教室に詰めておき、生徒の来るのを待つのである。質問者があまり出ないようなら、「指名してでも個人指導」をしたり、授業中等に行った確認テストの再テストを実施したり、提出物を出さない生徒の指導など教科担当者が工夫をして欲しいと思っている。
・ 又「単元に絞った小規模講習も考えており、これは教科担当者にお願いすることになるが日頃、授業でできない箇所を教えたり、トップレベルの生徒を対象にしたり、もう少し教えれば学力が伸びると思われる生徒を集めて指導するのである。
・ 又「英検2級および準2級取得講座」を設ける。主担は英語教育推進チーム長で予定表を全校生徒に配布し、希望者対象で実施し、英語科教員で指導をする、必要ならばネイティブ教師1名に入って貰えば良いと思っている。
・ 本校には「AO入試対策に精通した教諭」がおり、その先生に「面接・小論文講座を開設」して貰う。高校3年生のAO入試受験対象者に対し、面接および小論文指導を行うのである。
・ とにかく「生徒の面倒見の良い学校」が今後の私立高校の生き延びていく秘訣である。大阪府私学課の評価の視点もそこにある。私学が「どのような独特の教育を展開しているか」が補助金の評価ポイントになる。
・ 私は「月曜スペシャル」で頑張ってくれている教員には「理事長特別加算」として賞与月に「ボーナスを加算」するつもりである。お金で教員を釣るのではなくて頑張り、成果の上がった教員に対する当然の対価であると思っている。
・ 私は民間出身だけに「価値ある人が価値ある仕事をすれば、そこには大きな有形無形のメリットが出る」わけでその視点から離れられない。しかし教員にとっては別の意味で厳しいことにもなろう。「あの先生は教え方が下手だ」となるとだれも質問に行かなくなるだろうから、そうしたら一体どうするのだろう。

2010年3月26日金曜日

3月26日(金)禁煙タクシー







・ 「ヤッホー」と叫びたいくらいだ。遂に「大阪のタクシーも禁煙に踏み切る」らしい。最もまだ6割の会社で、169社のタクシー会社が5月末に禁煙を開始すると今日の朝日の夕刊が報じていた。この日を「待ちに待った」という感じである。
・ 全国乗用自動車連合会によれば、現在すでに「37の都道府県が全車禁煙」で4月には広島、8月には青森が予定している。「近畿では大阪と和歌山が未実施」だったが遂に「年貢の納め時」で大阪も踏み切るのである。
・ しかし「往生際が悪い」。まだ4割が反対らしいが、そのうち転じるのではないか。5月31日の「世界禁煙デー」に始めるという。「車体に禁煙のステッカー」が貼られるらしい。心待ちにしたい。
・ 通勤途中に大阪府立救急医療病院がある。ここを通過する時に国際興行のタクシーの運転手さんが「4月からこの病人に乗り入れることができるのは禁煙タクシーだけで当社がご用命頂きました」と誇らしそうに言われた。
・ 病院内が禁煙であることは知っていたが敷地内や乗り入れタクシーまで禁煙で規制するのかといささかびっくりした。しかし考えてみれば「なるほど」と肯ける部分はある。病院に通ってくる患者さんやその家族にも禁煙タクシーを配慮すると言うことだろう。
・ 確かに「あの狭い密室の箱の中」でタクシーに乗った瞬間、「タバコの臭い」が充満しているようでは「副流煙」問題として健康に良いはずは無い。換気をしたと言っても「臭いはこびりついている」もので、その「独特の臭気が気分を害する」のである。
・ 中には運転手さんそのもののが「ヘビースモーカー」で頭髪や洋服から臭ってくる人がいるがこれも「匂いに過敏な人間」には堪らない。私は「探して、探して」やっとこさ、「禁煙タクシー」を見つけ、この会社に送迎を願いしている。
・ 体質かもしれないが加齢と共に臭いに敏感になってきている。「わがまま」かも知れないが、もう身近で「タバコの臭い」を嗅ぎたくないのである。この年まで生きてきたから、もうこの辺で「これくらいのわがままは許される」と思って「私の周辺2メートルからはタバコの臭いを完全に遮断したい」のである。

・ 「武士の情け」ではないがしばらくの間、禁煙問題でのブログは書いてこなかったが、このようなニュースに接し、久しぶりに触れないわけにはいかなくなった。民主党政権は喫煙者に些か厳しい。これは自民党がタバコ生産者農家に気を使ってきたことへの「裏返し」かも知れない。
・ 来年度予算がほぼ決まったがその中に「タバコ税の増税」がある。10月に大体一本あたり5円値上げするとあるから標準で一箱300円が400円になるのだろう。これは「序章」で、年月をかけながら、最終的には欧米並みに1000円近くまで上がっていくのではないか。
・ 一日一箱吸う人は一ヶ月で12000円を煙にして灰にしてしまう計算になる。年間では144000円だから丁度今の高校授業料無償化のユニット金額とほぼ同じだ。本校で言えば担任手当てのほぼ倍である。まあこんなことはどうでも良いことであるが・・・。

・ 少し前の2月23日の読売新聞は大阪市の新たな動きについて報じている。見出しは「市職員「勤務中は禁煙」とあり、「建物、路上、飲食店まで・・・」との見出しで、この10月から実施するとの内容であった。
・ 大阪市は23000人の職員がおり、「喫煙率は男性で41.3%、女性で11.5%」らしいが今までは職務に支障が出ない範囲なら「分煙ルーム」での喫煙を認めてきたがこれを完全に廃止するのである。「遅すぎる」。とにかくこの市は仕事が遅い。この点は府を見習ったらどうだ。
・ 背景には「厚生労働省が飲食店や百貨店などを全面禁煙にするよう求める旨の通知」を各自治体に出したことを受けてのことであろう。大阪市はまず新年度中に「本庁舎や区役所など関連施設を全面禁煙」にし、「本庁舎周辺では条例で路上喫煙を禁止」しているからこれで昼休みの一服もままならず「事実上の全面禁煙」である。
・ 可哀想だが仕方がない。これが世界の流れである。まだ日本は遅いくらいである。それにしても市役所役人の男性の喫煙率の高さに驚く。41.3%というから異常に高くないか。
・ 昼休みに利用する飲食店も禁煙を勧奨されているから「駆け込み寺がなくなる」と愛煙家の市職員は嘆いているらしいが、これは「勝手な言い草」で周辺で迷惑を蒙る人間のことを考えるべしと言いたい。
・ 厚生労働省は2月15日に全国の自治体に「公共的な施設での原則全面禁煙を通達」した。罰則規定はないが中央官庁の通達であるから重いものである。しかしこういう場合必ず反発の声が上がってくる。
・ 特に深刻だといわれているのが「飲食店やホテル」というが本当にそうか。「酒を飲みながらの一服を楽しみにしている愛煙者は多い」とか「全国旅館生活衛生同業者組合連合会」の幹部も「客が減る」と文句を言っているという。
・ 通達から2週間たって3月8日の日経新聞は「じわり広がる禁煙エリア」の見出しで特集記事を出している。これによれば「喫煙者不採用の企業」も出てきているらしい。福祉や幼児教育を分野への就職が多い中部学院大学では2007年以降の入学者に「禁煙誓約書の提出」を求めているという。
・ 又「リゾート施設運営の会社」では「禁煙意向のない喫煙者は採用していないという」。当たり前だろう。「おいしい空気」を求めてリゾート施設に来るのに「タバコの臭い」がしていたら、客は「興ざめを通り越して腹が立つ」のではないか。
・ 就職活動中の東京都の大学生は「面接1時間前からタバコを控えて」いるというが、それでは駄目だ。まだ1時間では臭う。とにかく肌、髪、洋服から喫煙者は臭ってくるのである。
・ ある人は客先との面談前に「ミント菓子」を口にしているそうだが、これなどはまだ立派である。とにかく「喫煙者で困ることは自分では自分の臭いを感じていない」ことである。だから平気でおられる。「タバコの後や食事の後は歯磨きやお口の中をマウスリフレッシュをするのが喫煙者のマナー」ではないか。そういう時代だ。
・ 大体飲食店の禁煙に反対という経営者の発想は客が減るという視点だけらしいが、アイルランドでは「飲食店にも労働者はいる」という先進的なものである。日本の飲食店でも全面禁煙が当たり前となる時代を期待したい。
・ 私は今年から採用人事で初めて「ルビコン川」を渡った。2月に採用した「校務員さんの採用に非喫煙者を採用」した。そしてこの4月に採用する将来の管理職候補である「事務長代理」には「明確に非喫煙者を確認して採用を決定」したのである。
・ 教員についてはまだ前面に出した形で非喫煙者を優先採用するとは公開していないが「時間の問題」と考えている。タバコに興味がある中学生や高校生を前に学校の先生が体全体からタバコの臭いを発散させていて「良い訳がない」。
・ 今年「常勤講師から専任に採用する男性教諭はすべて非喫煙者」である。これは偶然で意図的にしたものではない。内一人は昨年の1月に禁煙したそうだ。「何とか最後のチャンスで浪速の専任になりたい一心がそうさせた」と本人は述べていた。この心がけが素晴らしい。

2010年3月25日木曜日

3月25日(木)教員の休みと時間割































・ 今朝も雨が降っていた。今日で三日目である。ここまで雨が降ると「堺市の校外グランウンド」が気になる。「水はけ」がどういう状態になっているかと気になるのである。元々あそこは「堺市の産業廃棄物廃棄処分地」だったところで「完全無欠の土地」ということではない。だから安かったとも言える。
・ どのようなものが廃棄され地中の中の状態はどうなっているのか、勿論購入前に堺市まで行って「情報公開」を求め調査し、又実際に「ボーリングして地質調査」を行った。又隣の土地の地主さんとお知り合いになる機会があって詳しく「土地の歴史」を聞いたのも「この土地の由緒」が気になっていたからである。
・ 結果は「ラッキー」と言うか、かえって良い結果を得て安堵したのである。しかしこのように三日三晩雨が降り続けると「水の沈積」と「地表面の状態」がどのようになっているのか私は気にかかるのである。今日は時間を見つけてこれらを観察に堺に行こうと通勤途中の車の中で思ったのである。

・ 運転手さんが言う。「ところで理事長の春休みは何時からですか?」と聞いてきた。「ハハーン、やっぱりそうか!」と「苦笑い」せざるを得なかったのである。「学校の先生に春休みなどありません。春休みは生徒のもので教員のものではないのです」とここでも私は答えたのである。今までに何十回となくこのような事を言われて来た。
・ 社会一般の人たちは「学校の先生は休みが多くあって良いなー。夏休み、冬休み、春休みとあって良いですねー。」と半ば「皮肉とも怨嗟」とも取られるような事を口にするが、明確に言っておこう。教員にそのような休みは勤務表を見ても就業規則を探しても何処にも無い。
・ あくまで「生徒の春休み」であって教職員のものではないのである。就業規則に規定されている休み以外は「有給休暇を取るしか休めない」のである。教員は「口下手」だし「分からない人に言っても無駄」と割り切っているから、過去積極的に説明して来なかったからこのようが「誤解」が生まれてきたのだと思う。
・ 確かに夏の暑い日に隣のサラリーマンは汗を流しながら仕事をしているのに、教員の家庭では先生がウィークデイに半ズボンをはいて車を洗っていたりするから、このような誤解を与えた面もある。「オンブズマン」などが教育委員会に通告したりして大きな騒動になった。
・ しかし「学校改革」が始まり、教員の「服務規律」が厳しくなってきて以来公立学校でも無くなったと思う。大阪でも発端は定時制教員の勤務管理の問題からだった。又いわゆる「自宅で出来る研修」、すなわち「宅研」という奴である。
・ 自宅で研修すると言って、旅行に行ったり映画を見に行ったりしたことも大きな騒動になった。とにかく教員の服務というのは「様々に権益が守られており」本人の自覚がない限り過去は「どうにでもなった」のである。
・ ただが学校が長期休業の場合は、生徒が少なくなるから「有休取得」をしてリフレッシュする先生は当然いるし、これは別に企業社会と同じでごくごく普通の当たり前のことだから全く問題は無い。
・ 一昔前は本校でも1学期の終業式から2学期の始業式まで全く学校に出て来ないなどの「不届き者」が居たらしいが今は全くそのような者はいなくなった。少なくとも本校の勤務状態は正常化され現在は全く問題ないと思っている。

・ それよりも私立学校はこの時期「来年の準備で大忙し」となるが、それも昨日までが作業のピークで今日辺りから「年休を取る」教員も出てくる。次の重要な出勤日は31日の「年度末職員会議」だからこれには全員が出勤してくる。従って今日から来週火曜日の30日までが「束の間の有休取得可能日」なのである。私は「有休を奨励」しているのである。
・ ところが運動部の顧問は「待ってました」とばかり合宿に出かける。今朝一番にラグビー部の主顧問が嬉しそうな顔をして部屋に入ってきて「今から名古屋合宿に行って参ります」だ。そうこうしていたらサッカー部の顧問が同じように「明日から宮崎合宿に行って参ります」と来た。これらは「勤務」である。このタイミングを狙っての「合宿」なのである。
・ もう一団の「超忙しいグループが教務部」である。彼らは新年度の「時間割」を作らないといけないから大変なのである。これは府立高校も全く同じ現象でクラス数と教員の顔ぶれが定まってから「時間割作成」がスタートするのである。
・ 学校の時間割を作成できる「コンピューターソフト」は良いのがあるらしい。新潟県の越後電子と言う会社のソフト「タキオン」というのが有名で本校もこれを使っていると次期教務部長は言っていた。
・ 昨日からこのソフトに「各教科会議の時間割」を次々とインプットをしていきまず「総合時間割原案を作成」するのだそうだ。「マトリックス」に個人教員の条件をインプットしていくのだが名前、教えに行くクラス、科目、条件など「1000件を超えるアイテム」を高校だけで43クラス分、120名を超える教員分をマトリックスとして作るのだから大変なことは容易に分かる。
・ 大体90%程度の完成度になるまで「ソフトを走らせる」のだと言う。それでもある人は毎日の授業が午前中だけとか逆に午後だけとかなったりして「修正が必要」となるとのことである。特に今年の苦労は新たに「芸術選択」が出てきたことらしい。
・ 今までは美術だけだったらなんら問題は無かったが「音楽科目」が出来てこの選択割合から時間割を組まねばならないから確かに複雑にはなった。もう一つは体育の授業である。基本は「3クラス2展開」で時間割を考えているとのこと。
・ 「男子が2クラス、女子が1クラスでの体育の展開授業」だから男性教諭2名と女性教諭1名の3名の教師が同時刻に男女別々に授業をするように組まねばならない。特に展開だから中学の体育も同時に条件に入れなければならないとのことで、体育の場合は「授業をする場所」も条件となる。
・ 又どうしても火曜日と金曜日の午後は「人権の研究会で出張」というのがあったりするとこれも考えねばならないわけで、とにかく「大規模校」の時間割は作業が複雑になるのは致し方のない面もあるのである。本校の教務部員は「IT達人」が多く、この点では安心である。
・ 最後はこうしてアウトプットされた時間割を「こま揃え」といって「パズル」みたいな「こま」で人間の判断で最後の修正をして行くという。こうして作った時間割が31日の年度末職員会議にて公表されるのだが、それでも「必ず修正が入ってくる」という。
・ それでも昔に比べたら「相当楽になった」とY時期教務部長は言う。今日現在でも教員手配が出来ておらずマトリックスには「英語教員A」「数学教員B」とかまだ顔も知らない教員がおり、時間割が出来てから人事担当の副校長が教員手配に入っていったと言う。
・ 私が着任してからはこう場面は無くなった。「専願数、併願戻り数のデータ予測」からある程度「自由度」を与えてあらかじめ「教員手配」をしているから今は時間割作成の時点で全ての教員名が分かっているのである。今年も「ぴったり」一致し、まさに無駄の無い教員配置となった。しかし私は教務部にはどうも弱い。頭が下がるのである。彼らは休みが取れない。

2010年3月24日水曜日

3月24日(水)併願戻り日から一夜明けて




























・ 朝からじわじわと嬉しさと言うより「安堵の気持ち」が湧いてくる。まさしく安堵と言う言葉以外に適当な言葉は無い。これで「今年もやって行ける」という気持ちである。心の奥底は後40人、もう一クラス分あっても良かったという思いもあるがもう「終わったこと」である。欲張りはいけない。
・ 昨夜のブログを見た知人がメールを寄こしてきた。公立志向の強い生徒だから後期試験に不合格だった生徒は公立の第二次募集に走るのではないかと書いた部分であるが、この部分を指摘をして来たのである。私は「突かれた」と思った。必ずしも真意ではなかったからだ。要は「今年は戻りが読めなかった」だけの話である。
・ 不合格になった生徒の保護者は「第二次募集には走らないと思う。意地でも良い私学に入れて公立合格者に負けないように頑張らせようとするのが親の気持ちだ」と指摘されたのである。私は「恐れ入谷の鬼子母神」と返答したのである。
・ 今朝一番に入試広報室が「データを分析」し、報告に来てくれたが「昨年と今年では際立った変化」があった。しかしこれは「企業秘密」だからここには書けない。「要は事態が変化し続けている」のである。私は当面この傾向は続くと思う。

・ しかしいずれにしても「今年は終わった」のである。今日からは「来年度の準備作業」となる。その前に私から全教職員に「確定クラス数」を発表するのが本校の「慣わし」となっており9時に「職員会議」が職員室で行われた。
・ 私は先生方に「慰労の言葉」と「感謝の意」を捧げ、「高校新1年生は13クラスで構成」する旨の発表をしたのである。生徒総数は549名だから単純計算で一クラス42名となり極めて纏まった編成とすることが出来たのである。
・ 朝から雨であったが併願合格者は「物品販売」に登校してくる。「教科書」「かばん」「靴」「運動靴」「辞書」などである。勿論学校が販売するのではなくて出入りの業者さんが本校に出向いてきて販売をされるのである。本校は場所を貸すだけである。

・ そしてこの日、「教科主任会議」「学年別新担任会議」「教科会議」「新科類別担任会議」「担任以外の分担会議」が次々と開かれる。これは中々上手いやり方で「一日で新体制を決めてしまう」という極めて「効率的な方法」である。
・ 言い方を変えれば学校の「縦串しと横串しを通す作業」である。従って本日は4月から新しく勤務される常勤講師の先生方も登校され、自分の所属学年、分掌などが決定される。加えて「部活動顧問」についてもご意向を確認しながら決めていくのだと思う。
・ しかしここで気をつけなければならないことは「教員が教員の手で教員のことをやると」そこには「生徒への視点が失われる危険性がある」ということである。特に「持ち時間や学年渡り」などは気をつけておかないと行けない。
・ 即ち「教員負荷均等論」が出てきてとんでもない「教科時間割分担表」などが出て来たりするからだ。とにかく教員は「持ち時間平等論」に異常にこだわるところがある。考えられないくらいである。江戸詰の侍が週に1時間だけ佐渡が島勤務になったりする時間割が出てきたりするのである。私は平均持ち時間以上の部分は加給するし、以下でも減給はしないと言っている。

・ しかし今日みたいな日は「用なし」で別の仕事をすることになる。自分でなければ出来ない仕事即ち「決定するという仕事」に集中できるのである。「学校教育法は教育は教員が司る」ということで「ごちゃごちゃ」校長が口を出さないほうが良いと考えている。
・ ただ学校教育法は同時に校長の責務として「校務を司り教職員を監督する」となっているから権限は担保されているのである。「細かいこと」はプロたる教員の手でやるべきであるがそれを監督しなければならないのである。これが出来なかったら校長ではない。マクロとミクロの仕事から言えば「教職員の仕事はミクロで校長はマクロの世界」だろう。
・ 「教員では決められない仕事が私の仕事」である。この単純な理屈が分からない勢力が時に存在するから学校は「ややこしくなる」のである。特に私立学校は教育公務員ではないから余計に「経営側の権限と教員の権利を峻別」しておかねばならない。
・ この点を混同すると自分たちが経営者と思って誤解する羽目になるのである。私学経営者の3つの権限は「教育目的設定権」「人事権」「施設設備管理権」だと思う。特に私学は「建学の精神」があり、80年、90年も前の精神が生き続けているのである。
・ それを後から入ってきた人間が「あれこれ」言っても「意味の無い」ことなのである。嫌なら去るだけの話である。まずその学校の教育目的達成のために「責任を果たす」ということが重要である。「まず責務、然る後に物申す」が順番だろう。

・ 「新武道館の建築確認申請書」がようやく完成した。議論しながら詳細設計が建築メーカー決定後6ヶ月で完成した。大阪市とは「事前協議」が十分なされており、指導を受けているから後は「トントン拍子」で進むと思う。
・ 今の状況から判断すると4月中には「着工のゴーサイン」が出るかも知れない。21世紀の武道館に「空調設備が無いのは辛い」と顧問の先生方が泣くので付けることとした。
・ 私からは「お茶室の配慮」と、この時代「ソーラー発電設備のない校舎」も恥ずかしいと考え、付ける事としたので、現在最終的な予算をゼネコンメーカーと協議している真っ最中である。
・ 一応完成は来年の1月、年の改まった1月に「景気付け」に盛大に各道場開きと「初釜」を考えている。「道場開き」と言っても空手・柔道場、剣道場、弓道場とあるからどのように進めるか検討しないといけない。
「理事会・評議員会」への内覧会などもあるし外部機関の先生方をお招きして「ご視察頂いた後、「竣工披露パーティ」もしなければならない。勿論それぞれの「保護者会」と「OB会」との共催である。
・ 「お茶室の初釜」は理事長職務代理に執行をお願いしている。すでに「お道具」の準備にも入っておられる。「茶道部は来年4月創部」で顧問の先生も決めている。全く経験が無いと言うことで4月から「お茶のお稽古」に行ってもらう段取りもつけた。
・ 共学にして6年目となるが少し「女生徒の伸び率が鈍化」しているのが気になっているのである。「女生徒を受け入れるあらゆる方策」を考えないといけない。新武道館の「ダンス練習場(空手道場兼用)」や「茶道部」もその意思が入っているのである。
・ 今の時代「女生徒に好まれる私立学校」は重要な視点である。私は今本気で「新校舎建設のタイミング」を見ている。ひと目見て「わー、めちゃ綺麗、この学校に行きたい」と言ってくれるような素晴らしい校舎が「本校の最後の勝負手」となる。

・ 昨日、もう一つ大きな意思決定をした。「堺市の校外グラウンドの照明設備」である。今までの考え方は「練習が終わった後の片付け用程度のルックス」で設計していたが「本格的なもの」にグレードアップすることを昨日決めたのである。
・ 大阪桐蔭高校など強豪校のスタジアムに比べて照度が弱いとメーカーから指摘された。当初から分かっていたのであるが「後からあれでは・・・」と言われても「切ない」だろうから同じようなものをつけると設計変更したのである。
・ これで例えばたまたま夕方、練習や試合が遅れて、陽が沈んでも野球や、サッカー、ラグビーなどは競技が継続でき、生徒は大変に喜ぶだろうと考えたのである。費用はかかるがこういうものは「後でやるほうが高くつく」ものである。
・ 「グラウンドの方は6月には完成」するから完成後は野球、サッカー、ラグビーには「杮落としの試合」を企画させたいと思っている。有名な強豪校をご招待して新設なったグラウンドで試合をするのである。「楽しみ」である。又「今年の中学校の運動会はこの堺のグラウンドで」やったらどうかと考えている。

・ 今から8ヶ月後の新武道館完成後に「何をやるか」のテーマであるが、すでに頭の中には案が纏まっている。あくまで現在の地で授業をしながら新校舎を建設するためには「事前段取り」が要るのである。
・ 即ち第1棟目を建てる「種地」が必要なのである。種地さえあれば「やりくり」して順番に建設していけるのである。やりくりしながら第1棟目の土地を確保しないといけないから苦労しているのである。「武道館も校外グラウンドもすべてこの種地確保のため」なのである。
・ 少なくともここまでは「自力」で出来る。しかしこの後からは「専門の建築設計会社に設計」を頼まないといけない。それが果たして何時になるのか、私は「今後どう攻めるか」財布の中身を見ながら、今じっと考えているのである。今年の戻りを見て益々考えが深まるのである。

2010年3月23日火曜日

3月23日(火)併願戻りの確定
















・ 「朝曇り」で天気の気配は出勤時にはすでにおかしく、迎えのタクシーの運転手さんは4時過ぎには「ぱらぱらと来てました」と言っていた。今日は「公立高校合格発表日で併願戻りが確定する日」であった。今年はどういう訳か結果が気になって仕方がなかったのである。
・ 「公立高校の授業料無償化と府立高校の定員増」の影響の具体的な証明は「併願戻り数」から判断できる。「専願数が増えた」のは大体どこの私学もそのような傾向だったみたいだが、その理由は「最初から私学決め打ちムード」に社会が追いやったと私は分析している。
・ 「授業料無償化が公立高校に及ぼすマイナスの影響」と私立高校も年収差はあるが「12万円から24万円までの国の助成」や「大阪府独自の就学支援システム」が保護者を動かし専願数が増えたと考えることは自然な考え方である。
・ しかし併願者というのは元々が「確固たる公立志向」であり、今までのように志望公立が不合格だったからと言って単純に「私学に戻る」のではなくて「公立の第二次募集」に走る層も相当要ると私は踏んでいたのである。

・ 8時40分「ご退職される4人の専任教諭に対し特別会議室において辞令交付」。勤続で言えば35年、34年、32年、3年である。一足早い辞令交付としたのは本日が「終了式(終業式)」だから今日以降はもし有給休暇の残余があれば「有休奨励を配慮」したからである。「次なる旅たちへの準備」もあるだろうし、ギリギリまで働いて貰うというのは私のスタイルではない。
・ 9時00分管理職朝会。今日の「時程」を確認した。本日は授業が2こまあってその後終了式となる。「終了式に授業をするなんて本当に学校は変わった」。嬉しい。「学校姿勢の問題」である。
・ 今日はお隣さんの「山之内小学校の卒業式」に来賓として招かれており、今まで欠席ばかりだったのと、「新武道館の工事が始まる」のでその「着工ご挨拶」もかねて出席としたものだった。
・ 生憎、時間がダブル部分があり、時間調整をしてもらった。すなわち授業終了後直ぐには終了式とはせず教室の清掃などを先行してもらうようにしたのである。その時点では「小学校の卒業式は幾らくらい時間をかけるのか」まったく分からなかったのである。
・ 9時45分、まだ雨はなく一応事務が用意してくれた雨傘を持って自転車で近隣の山之内小学校に赴いた。時間は3分もかからない。この卒業式のことについては別途書いても良いが、一言で言えば「式の始めから最後まで練習と訓練された素晴らしいミュージカル」を見たような感じであった。
・ 生まれて初めて小学校の卒業式を経験した。「新鮮なそして覚醒した印象」を私は有したのであった。「大いに勉強」になった。浪速中学校の校長でもあるから今回の小学校の卒業式は「国旗国歌問題」など多くのことを私に教えてくれたのである。
・ 11時55分小学校を後にした。雨は「ぱらぱら」来ていたが急いで学校に帰着。通用門をくぐったときに丁度終業式の「校長講話」のタイミングであった。ぎりぎり間に合ったのである。ホームルームや教室の清掃に手間取ったからと言う事だった。
・ 12時25分 「臨時職員会議」にてご退職4人の先生方を全教職員に正式にご紹介し、「永年のご功労に感謝」申し上げた。短い時間ではあったが「誠意を尽くして」ご功績を述べたのである。送別の宴は5月10日と決めてある。4人の先生方からもご挨拶があったが「淡々」として良かったと思う。
・ 13時昼食。次々と今年でお別れになる常勤講師の先生が「お別れの挨拶」に来られた。立派な態度であった。これを「一宿一飯の恩義」という。皆さん「浪速で良い勉強をした」と深々とお礼を言われた。私は嬉しかった。
・ 「ご縁薄く」長くお付き合いは出来なかったが、例え1年でも2年でも「浪速経験」が先生方の今後の人生に活かされればと思う。公立を目指す方、結婚される方、故郷に戻られる方「人生は様々」である。「グッドラック」と心で叫んだのである。

・ 本日もう一人の先生も本校を去る。朝方短い時間ではあったが二人だけで「心の通い合う」会談となった。私はこの先生が好きであった。正直明日から居なくなると思うと寂しい気がする。
・ お名前はM先生。おん年70歳。和泉市の住人。一人娘さんは嫁がれ今奥様とお二人。本校OBで昭和37年卒業と同時に奉職。国語科の教師。真面目一筋に65歳定年まで勤め上げ、請われて入試広報室に嘱託として勤務。生徒募集活動に注力。
・ この度70歳になったことで後進に道を譲り、引退を決意。先生は言われるのである。「48年の浪速勤務ではなくて高校時代に3年間、大学時代もバレーのコーチとして4年間浪速に通ったからこれらを含めれば55年です。私の人生70年で55年が浪速と共にありました」と。私は「ぶったまげた」と同時に「感動した」のである。
・ 48年の教師生活で「最大の思い出は?」という私の問いに瞬時に返ってきた言葉が以下のようなものである。「昭和39年から40年にかけて組合闘争が激しくなり、職員室などにもビラや看板などが垂れ下がり、「自分の母校を潰すのかと当時の組合教員に詰め寄ったことが忘れられない。」「無茶苦茶な時代」でした。
・ 次の思い出は「中学校に配転になってから」だと言われる。ここで当時の立派な先生方に身近に接するようになり「教師とは一体何かというものを学んだ」といわれるのである。3人の先生のお名前を挙げられた。これらの先生のおかげで「自分は教師に初めてなれた」ような気がすると言われるのである。素晴しい。
・ そして次の先生のお言葉が「圧巻」であった。「教師というには40歳を過ぎて初めて自分は先生かどうか言える」のであって40前の教員はまだまだ「学校の先生と言うにはおこがましい」と言われるのである。
・ そしてM先生は「教師は良い教師によって学び育つ」と言われた。この二つの言葉は特に若い教員が「かみ締める言葉」だと思う。40前はひよこ、良い教師の恩師を持てと言われるのである。言い方に「迫力があった」。
・ そして「私と後輩たちへの遺言?」を頼んだのである。先生は言われた。“理事長が今の浪速を作ってくれた。もう誰もが知っていることである。自分は特に東大阪を拠点に塾周りをしたが木村理事長を知らない先生はいなかった。今日の高津高校を作った人として有名であった。”
・ そのお陰で理事長が来られる前は塾訪問をしても「フンフン」という感じであったが今や東大阪の塾長様も時間を取って会ってくださる。又公立中学校の校長先生の中には高津出身の方もおられ木村理事長の「ファン」であり、ファンがとにかく多い。
・ 「理事長の入試説明会のお話やブログ」は行き渡っており、私も塾訪問前はブログを頭にいれて出かけないと恥をかくことになった。理事長への遺言は「私と同じく70歳まで私の母校で頑張って欲しい」と言われたのである。
・ 入試広報室のメンバーは現在「史上最強のメンバー」で敢えて言うことはない。理事長がO入試広報室長を管理職に登用したことも最初は驚いたが素晴らしい人事である。彼に今日は「東大阪を中心とした塾情報ファイル」を渡した。私は時々来校して「チェックして」と言ったのである。
・ 今度本校に招聘された堺市の校長であるT先生は私が教えた生徒で彼が母校の入試広報室に入ってくれるのも嬉しいニュースである。「自分の母校がこのように輝き、理事長と仕事をした3年が最大の私の思い出」となった。「後顧の憂いなく去れる」。
・ 「本当に仕事をした人間だけが口に出来る言葉」である。やっぱり人間は自分の職場を愛し、損得の感情だけで動いては駄目だということではないか。早く学校からいなくなった人には「損得だけ」の人が多かったのではないか。

・ 初の併願戻りの生徒が事務の受付に来られた時間は12時だったと事務が言う。少し「出足が遅い」のではないかと当初は心配した。年を取ると「心配性に拍車がかかる」感じだ。途中事務室の前に様子を伺いに行った。もっと「ドンッ」としていなければならないのは分かっているのだが仕方が無い。ところが13時を過ぎれば「事態は一変」したのであった。
・ 「時々刻々と入試広報室長が併願戻り数を報告に来る」。13時45分「今、500人を超えました」。この数値は専願数を加えた「入学者数トータル」を言っているにであって戻りだけの数値ではない。専願数はすでに決まっており360名であった。
・ 14時30分「今時点で532名となりました。」後締め切りの15時まで30分弱ありますからもう少し伸びるでしょうと「顔が幾分紅潮気味」であった。14時30分で昨年の515名を抜いて史上2番目の多さに迫っているのである。私は「安心というか」、「静かなる興奮」を感じながら「今年も勝負あった」と思ったのである。
・ 15時過ぎ締め切った。「今年も勝負に勝った」と思う。何の勝負かといえば「自分の経営結果」についてである。「併願戻り数は189名で専願と合わせて549名」で確定となった。ここ最近では歴代2位の生徒数になる。戻り率はまだ確定ではないが9%前後であり、入試広報室の予想通りとなった。
・ 体育館では「併願点呼」が静々と行われており、新学年主任が緊張感を持ってリードしていた。「多いですね」とこちらも幾分興奮気味である。私は体育館から戻って早速副校長二人と「クラス編成」の方針を出したのである。「理数科1クラス、普通科12クラスで合計13クラス」でこの学年は行くと決めたのである。
・ こちらも極めて幸運な数値配列で「科類の調整業務」は少なくて済む。私は本当に「幸運」である。教員手配もピッタシ嵌ったのである。全てが「合理的、効果的な結果」となったのである。
・ 私はこの1年の教職員の頑張りに対して「心から感謝と慰労の言葉を伝えたい」。明日から新しい常勤講師を入れて「新フルメンバーが勢ぞろい」して新年度の準備に入っていくことになる。全教職員「気持ちよく、そして元気一杯、この1年が過ごせる」のではないか。ここが嬉しいのだ。
・  しかし私学は面白いし、チャレンジグだ。「努力すればした分、結果がすぐ出てくる」。私は朝方会談したM先生の言葉を受けて70歳まで第一線で頑張る積りである。少なくとも「新校舎建設」は私の手で図面を描かなければならない。しかし良い締め括りとなった。「体全体に喜びがジワジワと満ち溢れてくる感じ」だ。

2010年3月22日月曜日

3月22日(月)調整手当ての廃止







・ 3月10日のブログに「年間変形労働性」のことについて詳述した。中学、高校、事務と三つの職場はそれぞれに特徴がある。あって当然で、全く同じと言うのが逆に可笑しいのである。
・ 3年前にはとにかく「中学校は元気がなかった。」確かに生徒数は少なく、職員室も暗く、高校の影に隠れて「ひっそりと生きている」という感じであった。私は中学から「大改革を進めた」。
・ その基本的な思想は「中学の独立」であった。規模が小さく、元気がないと当然のことながら行事なども高校側に引っ張られるものである。私はそのために「教員の独立」を図ったのである。
・ 「亘り」あるいは「渡り」と言って高校教師が中学に教えにいくのであるが、これは「駄目」だと判断した。最もクラス数が一クラスであったから仕方の無い側面もあったのだが、生徒を増やす努力と並行して行った。
・ その結果3年経って「中学は生徒数120名規模まで成長」し、古いベテランの先生はすべて高校側に移し、「中学教員は比較的若い常勤講師の中から優秀な教員を専任教諭に採用」して当て嵌めて行ったのである。
・ 「人を変えることが学校文化を変える」最も効果的な方法である。公立中学の教諭を採用しすぐ教務部長にしたり、担任に当て嵌めたりしたのである。そしてとどのつまりが「関西大学グループ入り」を図ったのである。
・ 4月からは「関西大学連携浪速中学校」となる。高校は「浪速高校」のままだから完全に質的には異なることとなる。これを私は「第二の中学校創立」として「新たな浪速中学校」を若い世代の教員が作り上げてくれることを期待しているのである。
・ 今年4月採用の教員の中から5名の常勤講師を中学校所属とする積りである。すべて女性の先生である。今「女性が元気」だ。男性教師はもっと頑張って欲しい。内2名は国語の先生で教員経験はある。とにかく国語が大切である。後は英語1名、理科で1名、体育、家庭科で各1名で「すべて大学新卒」である。
・ そして4月からは「生徒生活指導部」も高校から独立して新設し、部長、副部長を作った。副部長などは女性で常勤講師から専任教諭になった瞬間に副部長だから如何に中学は「若いか」が分かろうというものだ。
・ 教務部も実態に合わせて「教務・進路指導部」とネーミングを変えることとした。これは兼ねてから私の持論であったがようやく浪速中学校で実現することとなる。高校と違って「教務と進路の合体」は意味あることだと確信している。
・ これで「中学所属教員はトータル18名で男女比率が9対9と拮抗」した。良いバランスである。「中学職員室は完全に雰囲気が変わって来る」だろう。教頭先生も替わる。私は教頭にお金を出すから「職員室を大改造」し、テレビではないが「ビフォアー・アフター」で見違えるような職員室にして欲しいと言っているのである。
・ 今の中学職員室は行く気にはなれない。こまごまとした小部屋があってまさに「コチョコチョ」しているのである。あれではのびのびとした中学校にはならない。関西大学連携浪速中学校は「初動が重要」である。「新しい文化」を18名の先生方で作って行って欲しい。

・ 話を「変形労働制」に戻そう。これだけ中学の独立を図れば中学と高校の違いが勤務時間に出てくるのは当たり前である。例えば現在の勤務開始時間は高校は8時25分であるが中学は朝テストの関係などから8時00分としている。
・ 従って中学、高校の合同会議、典型的な職員会議では終業時間が異なるのである。高校は17時10分から17時30分であるのに対して中学は大体16時45分であるからもし遅れれば中学には残業時間を支払わねばならないことになる。
・ 何時も時間を気にしているわけにはいかないから今まで私は「時間外手当を支払い」ながら公立教員と同じ趣旨の「3。5%程度の調整手当て」を支払って来た。しかし2年経って、この際「時至れり」と考え、「調整手当てを廃止」し、この財源を有効に活用することとした。
・ 4月からは私立高校もご家庭の所得によっては「授業料無償化」が始まる。この財源確保も必要である。この考えは3年前の着任時から「何時かはやる」と教職員には伝えており、彼らも理解してくれている筈である。
「もうぼつぼつ」と考え、調整手当ての廃止は何時も私の「ピストルのトリガー」に引っかかっていたのであるが、「遂に引き金を引いた」のである。「職員代表」に申し入れ理解と協力をお願いしたのである。画期的なことだと思う。
・ 「主任主事手当」「委員長手当」「担任手当て」も支払うようになって3年である。年間6万円から18万円まで「職位によって差」があるがこれも実は「みなし労働制のはしり」みたいなものである。公立では法令主事にだけ「日当たり200円」が支払われているが、月額5000円程度でにしかならない。本校は違う。
・ 本校みたいに「調整手当てを残し、時間外手当を支払い」、あまつさえ「公立の3倍もの主事手当」まで支払っている学校など何処にもなかったのではないか。教職員にはここは「抑えておいて欲しいポイント」である。
・ これらの背景には「本校の教職員の給与水準はラスパイレス指数から見ても決して他の私学と比べ高くない」との分析数値があるからである。今までは「支払える余力」があったから私は「調整手当」を維持してきたのである。「配慮してきた」のである。
・ しかしこれもカットせざるを得ない局面が22年度以降には出てくる。私は「自分の年俸を22年度から徐々に大幅にダウン」する。20%を超えるだろう。又管理職にも5.5%から6%程度「年俸を削減する」ことを既に通知した。「痛みは全員で分かち合う」のである。
・ とにかく「本年度の入学者数の決定とそのご家庭の家計状態」から「授業料無償化支援対象がどれくらいの数値になるのか」、「新武道館、堺多目的グラウンド、そして新校舎」と資金は今後幾らでも要るのである。「明日は運命の併願戻りが決定する日」である。心穏やかに受け止めたい。
・ 後5年、あと5年で全てが見えてくる。それまでは石にかじりついても頑張らねばならない。理解して付いてきて欲しいのである。全てが完成すれば「浪速の未来は磐石」となる。
・ 恐らく全国の高等学校で給与明細の中に「調整手当ての項目がなくなる」のは本校が初めてではないか。教職員の理解を得てすでに「労働基準監督署に給与規則の改定を届け出て受理」された。6月払い賃金から3.5%実質的な賃金ダウンである。
・ ただし一般企業では「定期昇給」を実施するかどうか今次春闘の最大のテーマであったが、本校は「定期昇給は実施」する。又常勤講師の調整手当て相当分の削減については他校に比べて相対的に低い講師料を鑑みて「現状維持」とすることとし既に通知している。
・ 今回の「調整手当て」問題は私の「喉に突き刺さったトゲ」みたいなものだったがこれで「すっきり」した。今後は「一律支給の時代とは終焉」を告げて「仕事をした人間に還元する」方式となる。社会では当たり前のことが本校では「形の上では完成」したことになる。

2010年3月21日日曜日

3月21日(日)侍教師 H先生





































・ 一人の「骨のある教諭」がこの3月末で本校を去る。少し長くなるが記録に残しておかねばならない。「円満退職」であるが本校の定年65歳からすれば4年を残しての「早期退職」である。3年前からほぼ決まっていたようなものであったが、私はまだ60歳でもあり「残って頑張って欲しい」といい続けて来た。
・ しかし故郷、山陰の事情も厳しくなってきて「ボツボツ潮時」と覚悟をお決めになったのだと思う。今年の1月「仕事始め」が済んで2-3日後のことだったと思うが「最後の意思通告」を受けて私は「止む無し」と辞意を受け止めたのである。
・ 今は「ご苦労様」という気持ちで一杯である。「有難う御座います」という気持ちである。H教諭としておこう。いずれ故郷に帰らねば成らない家庭的事情は分かっていたがその仕事ぶりから本校にとって欠くべからざる教諭と思い、私は昨年「内規」を作り、理事会に諮って「指導教諭の職位」を創設し、初代の「指導教諭」に発令した。
・ H先生は大学を卒業し1年間は民間に勤務したが昭和49年から本校に奉職してくれ勤続36年である。この間学級担任が14年であるが特筆すべき事項は「教務部長・副部長が19年」というから、このような先生はもう本校には現れないと思う。
・ そうなのである。本校の教務はこの先生によって形作られたのである。コンピューターにも精通し、簡単な「ソフト」なら自分で作ってしまうからそのIT技術は相当なものである。昨年は「私学教育功労者」に私は推薦し、見事に表彰された。当に「輝かしい経歴」なのである。
・ 今から3年前、着任した時から正直に言って「この先生から嫌な思いを受けたことが一回もない」のである。今振り返って見ても間違いはない。最初の面談時に年齢や経験を鑑みて「管理職についての意向」を全ての該当する教諭に聞いたことがあった。H先生は間違いなく管理職として格好の適任者であり候補であったからである。
・ このときのH先生の会話は今でも覚えているが「管理職になど絶対になれない。成れない理由は・・・」と説明を受けた記憶がある。その時の言い方が記憶にあるのである。「断固として」という感じであった。
・ 「教務部長」というのは「学校の頭脳」であり、「校内考査や学校行事、新旧卒業判定、入試問題採点合否判定業務」など教務部の業務というには「中枢の生命線」であるが彼は本当にこの3年間頑張ってくれた。
・ 「木村改革はH教務部長が具体化して図面化」してくれたから「全軍が動くことが出来た」のである。もし教務部長が「面従腹背」「守旧派」「抵抗勢力」だったりしたら、私は強権で「教務部長を更迭」してでも、改革をやりきったと思うが、この3年間全く一切、そのようなことがなかったというのは私の「精神衛生面」から大いに助かったのである。
・ 冒頭「骨のある教諭」と私は表現したが中々上手い表現だと自分でも思う。「良い先生」「素晴しい先生」などは陳腐だし、何と言っても37年間も教師をやり「還暦を迎えたベテラン教師」である。「良いとか優秀とか」では心が伝わらないだろう。
・ 人間60歳というのは「天命を知る」ことであり、人を表現するにそれなりの言い方があると思うのである。敢えて言えば「達人教師」とも言えるが、私は19日に行われた「校内教職員研修会」において「侍教師」「武士道的教師」という言葉を使ったのである。
・ 見た目は「温厚」そのものであるし「理科の化学を専門」とする教諭だから「知的」な雰囲気をかもし出している。何時もダーク系のスーツでネクタイ以外のお姿を見たことがない。「ピチツ」と決まっているのである。
・ しかし先生の内なるものは「激しいもの」があり、「気性はどちらかといえば激しい」ほうだと私は思っている。若い時は「この世代の誰もがそうであったように組合教員で中々の闘士」だったと聞く。しかしある時組合から離れた。私が着任する随分前の話である。
・ 私は一度聞いたことがある。「どうして組合から・・・」。お答えは良く覚えていないのだが私の問いに対して先生は言葉少なく「組合頼りにならず云々」みたいなことだったと思う。これは間違いがあるかも知れない。
・ ところが私が着任した時の組合分会長が「事もあろうか」、突然、まさに突然に近隣のライバル私立高校学に転進するという「信じられないような出来事」があったりして、本校の「組合分会」が揺れ動いたのであった。
・ 後任の分会長以下役員も決まらない中で、H先生は動いたのである。「次々と分会長候補者にあたり」説得を試みるのだが結局先生の努力は実らなかった。私はこの話を聞き付け、「組合を退いたのに後任の役員人事を心配する理由を問い質した」ことがある。
・ 先生は自分も組合員として活動し退会した。そして今惨憺たる現状に陥った本校の分会の将来を心配して「最後の組合奉公」「あるべき姿論」として「組合あるべし」と動いたのだと私は思っている。そのときに声をかけた教諭が面白いのである。
・ そうなのである。H先生は「人物を見ている」のである。「私に対峙して組合員をまとめて行けるのは」という発想で複数の人物にあたったらしい。又ある時、「私のちょっとした一言」で教員が動き、「ああ、あれはそういう意味ではなかった」と言った時に「理事長の一言は今や誰もが厳しく真剣に受け止めます」と暗に私に注意を喚起したのである。
・ 私が着任前に学校を揺るがすような「某重大事件」があった。これは理事会においても大きな議題になるような事件で一方の当事者がH先生であった。私は「何が現象として起きたか、その原因は何か」、徹底的に資料を読み、関係者すべてから聞き取って行ったが、記録に残る、このときのH先生の「言動」は当に先生の「限界を超えた場合の激しさ」を物語るものであった。
・ 結局「事件の真の原因」は自分なりに整理できたが、「大改革邁進中の私」には「昔のこと」など関係ないこととした。「新しい浪速を作る」ただこの一点で私は「H先生を観察」し、そして徐々に「頼り」にした。そして先生は見事に成し遂げてくれたのである。
・ 今から1.5年前頃だったと思うが「某重大事件の当事者二人」を私が席を作り、夕食に誘った。二人を並ばせ、私が真向かいで当に「東映やくざ映画の仲直りシーン」みたいな雰囲気だったが、そのときはさすがにまだ雰囲気はこわばっていた。
・ しばらくしてH先生は何かの時に「あの時あのような席を持って頂いて感謝しています」と言ってくれた。その後この二人は徐々にわだかまりもなくなっていったのだと思うが心の奥底は私には分からない。
・ 最近、一方の当事者が私のところにきて、H先生がこの人のところに来て、「色々とありましたが・・・云々」と言ってくれたと感慨深そうに、わざわざ報告に来てくれた。私は「良い話」だと思うのである。この辺が「」である。
・ 最近では何と「多聞尚学館」で講師として2回連続「化学の特別講義」をしてくれた。2回といっても1回が1泊2日で深夜まで続く講義である。60歳の年齢には堪える筈である。しかし先生は2回とも見事にやりきってくれた。
・ 私はこの2回とも先生の講義を拝見に行ったのであるが、生徒は真剣そのもので見事なものであった。私はそのときに気づいたのである。「ああ、これはH先生のさよなら講義」なのだと。「ホラッ」大学教授が退官するときにやるあれと同じようなものだと。「36年間の化学の教師としての最後を味わって」いたのかもしれない。
・ 1月の始めに退職の意思を私に伝えに来たときに「最後の最後まで浪速のために頑張ります」と言ってくれたことを私は忘れていない。確かにH先生は来週23日終了式以降は「残余有休の処理」でお休みくださいと副校長を通じて言ったのだが、最後まで教務部長として出勤されるという。「頭の下がる思い」である。
・ H先生のもう一つの功績は「後任を育てている」ことである。次の教務部長は「見た目大変H先生に似ておられる」Y教諭である。この先生は私も高く評価しこの3年間見事に教務副部長をやりきり、特に私は雅楽部の支援、奉仕委員会の立ち上げ、ボーイスカウト立ち上げなど難しい仕事を振ってきたが見事に期待に応えてくれた。
・ もう一人上げねばならない。H先生は「化学の専任教諭」を育ててくれたことである。最近私のブログで金剛山登山や生駒登山で出てくる少し太めのI先生である。このI先生は都合6年間本校で「艱難辛苦」「勉励刻苦」「骨身惜しまず」仕事をして、やっと「専任の椅子を掴んだ」先生であったが、この6年間、陰に陽に薫陶を受けたに違いない。
・ 19日は「平成21年度第3回校内教職員研修会」の日であり、前半部分の「専任教諭1年間の研修報告」というのがあったが、今回はI先生を含む3人の先生が対象で成果の発表があったのである。これは「指導教諭としての職務」だったのだが私はこの時のH先生の最後の講評に感動した。
・ 「このような若い優秀な3人の指導教諭として1年間を過ごし、自分にとっても優秀の美を飾れた気がする。この3人は間違いなく将来の浪速を背負う人材である。この1年間自分の教師としての経験と思いを伝えた。自分は浪速の舞台を引退するが心置きなく去って行ける。」と私は解釈した。
・ 私はH先生の労に報いるために31日ぎりぎりまで働いてくださる先生のために「送別の宴」を持つことを決めたのである。メンバーは4人、H先生と後任のY教務部長、そして恐らく友人で戦友であった筆頭副校長のS先生である。実は副校長も理科は化学の先生なのである。
・ 結局人間というのは「品格」である。「人間の品格」が問題なのである。又H先生は「内心が激しいだけに克己心が大きい」のである。人間はこうでなければならない。 H先生の退職で「浪速は名実ともに新しい時代」に入っていくことになるのであろう。「旧世代に属し、その中でも優秀な人材のシンボルみたいな先生」であった。どうかお体に留意されて次なる人生の豊かさをご祈念申し上げたい。「H先生、有難う御座いました。」